< 原子力と仏教 >




 仏教とは文字の示すが如く仏(ホトケ)の教えである。仏とは宇宙の道理を知り、それを身を以て行う人間のことである。釈尊は宇宙の道理を物心に通じる法(ほう)として、言葉であらわして、自らそれをよりどころとしてその一生を正しく終えられたので仏とあがめられたのである。そして、この仏としての釈尊の見出されて、言葉であらわされた法を仏法というのである。

 釈尊が、この世におけるあらゆるものごとの真理を深く深く考えに考え抜いて、ついに見出されて言葉であらわされた法は、いつの世の人にも、また誰にでもモットモであると受け入れられるものであって、仏教の根底とみとめられ、これだときめられている三法印である。この三法印については、すでに述べたが、これから仏教の特質といわれる縁起(えんぎ)の思想、因縁所生の原理があらわれているのである。

 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印の三つの文句が互いに原因となり縁(条件)として働いて結果を生じ、結果がまた原因となって縁によって新しい結果に移り変わるのである。

 三法印は釈尊によって見出されて、言葉であらわされた物心に通じる宇宙の道理である。この宇宙の道理によってこの大宇宙における森羅万象がつくりだされ、条件によってうつりかわっているのである。人間の心(こころ)も肉体という物質を条件として人と人との間につくりだされた現象である。肉体をはなれて人の心は無く、ただひとりで人間としての心はできない。人の心もぐるりの条件によってうつりかわるのである。三法印が物心に通じる道理であることは、いつの世の人にも、また誰にとっても真実であって、まことに一に止まる正法である。


 この大宇宙に物質と現象とが存在するからには、それらをつくりだす何物かがなくてはならない。ゼロはいつら集めてもゼロである。ゼロからは何物もつくだせるわけがない。無から有は生じないのである。大宇宙にある物質と現象をつくりだす根元が極微の存在であるエネルギーであることが、ドイツの物理学者プランク博士によって1900年にあきらかにされたのである。物質と現象とを色(しき)といえば、それをつくりだすエネルギーが空(くう)である。

 大宇宙にあまねくゆきわたって存在する極微のエネルギーはこりかたまって物質をつくり、物質はさらに集まって物体をつくりだしている。したがって物質・物体もその実はエネルギーなのである。1902年に相対性理論で有名なアインシュタイン博士は、物質の量、すなわち質量もエネルギーであるとの見解を発表したが、この見解がついに原子力の解放により、質量が光・熱・運動にかわるという実験を成功させたのである。

 この世にあるありとあらゆるものは、ことごとくみなエネルギーである。


 エネルギーを根本実在の極微と知るときに、物質の正体がはっきりする。


 物質と現象はエネルギーに異ならず、エネルギーは物質と現象に異ならない。物質と現象は、すなわちこれエネルギーである(色即是空)、エネルギーは、すなわちこれ物質と現象である(空即是色)。こう書く文章は般若心経の説くところ、これを現代理論物理学に結びつけて、そのままに一致をしているのである。


 光として目の感じない、いくぶん短い波長をあらわすエネルギーは、物体に加わって、その膨張をおこさせる。この膨張は熱といわれる現象である。人間の肉体のエネルギーをうけての膨張をアツサとして人は感じるのである。この膨張は熱といわれる現象である。人間の肉体のエネルギーをうけての膨張をアツサとして人は感じるのである。寒暖計の水銀がエネルギーをうけいれて膨張するときに、人は温度が上がったといい、エネルギーを外の環境にとり去られて収縮することを温度が下がるという。すべてはエネルギーの問題であって、物質と現象はエネルギーの象徴であるということになる。こうしたところに人間以上の能力があるという神のごときはないし、人間そのものもエネルギーが地球表面の状態に調和してあらわれた姿にすぎないことになる。けれども、物質と現象のすべてが、宇宙の道理にしたがってあらわれているということはたしかである。このことを仏教は説くのであって、仏教は唯物論や唯心論をこえているのである。


 物質と現象の中には、人間の五感はもとより心の働きも含められている。受(なさけ)も想(おもい)も行(はからい)も識(こころ)も、すべてエネルギー・空のあらわれであるというわけである。

 大宇宙におけるエネルギーは増しもせず、減ることもないのである。エネルギー不滅の法則は真実である。エネルギーにはうつり変りはあり、物質変化をおこさせるが、極微の存在であるエネルギーそのものは垢れることもなく浄まることもないのである。炭素・水素・酸素・硫黄・カルシウム・金・銀・銅・鉄などとちがった元素の原子もつまるところエネルギーそのもののかたまった量のちがいで、性質も変わっているのである。


 空は不生不滅、不垢不浄、不増不減である。したがって空、すなわちエネルギーそのものは、物質と現象とちがって色彩も音も、香も、味も、硬さなどもないのである。

 般若心経の説くところは極微としてのエネルギーの本質を正しくつかんでいる。


 この大宇宙における物質と現象はエネルギーを根元としてあらわれているのである。般若心経に説かれている空をエネルギーであるとすれば、般若心経の説くところは、現代科学の考えかたに一致している。般若波羅密多とは、すべてに通じる道理である。すべて、この世の中の生滅変化しているものを色・受・行・識の五蘊というが、これは生命はもとより人間の心をも含めての物質と現象、すなわち物と心のあつまりである。人の心も肉体という物質を縁としてあらわれたエネルギーのはたらきであるとわかれば、われわれも生きているのではなく生かされているのだということとなり一切の苦しみ悩みも、おこるべき条件でおこるべき条件でおこるので、全く仕方のないこととなる。人間の心もまたつくりだされているものであるから、人生を正しく歩んでいくためには仏法をよりどころとしなくてはならないし、そうしていけば苦しみ悩みも消え去るわけだ。肉体をはなれての心はなく、人間の肉体あって心は生じるものである。われわれ人間といえども、エネルギーと無関係なものではないとみとめるときに、死後の世界などを思うて、苦しみ悩みでもないものに取り越し苦労をすることはムダである。


 考えかたのあやまりを正すのが仏教である。今日における科学のあやまりを正して、それを円熟させるには仏法を知ることが大切である。仏教を古くさい、抹香くさいなどと考えることが根本的なまちがいである。


 原子爆弾の実現によって原子がピカドンとエネルギーとエネルギーに解放されることがたしかめられた。科学者が原子力の解放に必要なる条件を見出したことによって、その実現がなしとげられたのである。かくすれば、こうして、こうなるということは実に仏教の縁起の考え方である。原子に固定されていたエネルギーは解放されて、ただちに光と熱と力という現象をあらわしたのである。

 水素爆弾も研究は、水素をもととして、さらにその組合せによって物質の単位であるいろいろの元素の原子をつくりだせることをたしかめたのである。水素をもととして他の元素の原子をつくるために必要な力が原子爆弾のエネルギーで供給されなくてはならない。このため水爆をつくるに原子爆弾が必要である。

 物質の本体をつききわめようとする科学の目的はついに、原子力の解放によって、本体はエネルギーであることをたしかめたことによってなしとげられたのである。質量はエネルギーである。色即是空(物質と現象とはエネルギーである)ということがはっきりした。原子力の研究によって人類の知らんとしていた物質の正体がエネルギーであることをみとめたからには、もはやこれ以上の研究を進める必要はないのではなかろうか。


 原子力の解放によって、ついに太陽をとらえたなどというが、太陽からは原爆や水爆のバクハツででるような、とくべつに強く、短い波長をあらわすエネルギーの動きは、少しはきても有害なほどはこないのである。ところが、原子力の解放で生じる、とくに短い波長をあらわすエネルギーの動きである放射線は生きものに害をあたえるものである。こんなものが太陽から沢山きていたなら地球には今のような生物はいなかったわけだ。ビキニの灰はこのことを物語り、これからさらに原子力の解放をつづけていけば、地球の空気は放射線で汚染して生きていけなくなるという心配をさせる。しかも、原子力の解放によって水中にある水素、とくに海水をつくっている水素をひきつづいて爆発させる反応が生じたら地球はほとんど一瞬に蒸発してしまうだろうとまで考えられている。全くおそろしいことである。けれども、原子力の解放ということは人間が、そうしたことをするからおこるのであって、現在の地球表面にある元素の原子は自らは爆発をしないのである。

 地球表面で静かに落ち着いている固定された原子のエネルギーを人間がその手で解放して、それで苦しみ悩みをつくりだしているのは文字どおりのバカバカしいことである。原子病といわれるものが、人間がつくりだしたもので、原子力さえ解放しなければ問題にもならないことである。原子病の対策などをするための研究など、人間が原子力の解放をやめれば、全くムダなことである。眠れる赤ん坊をたたきおこして、ギャアギャア泣いているうるさい困るなどと同じく、原子力を解放して苦しみ悩むなど、全くおろかなことであって、自業自得とはこのことである。


 地下資源としての石炭や石油のなくなることを心配して原子力の利用を考える必要があるというのは、原子力関係者のいいぶんであるが、原子力の利用に欠くことのできないウラニウムを採掘し精錬するのは、今日の石炭や石油をほることと、その使用にくらべて非常に困難なことである。しかも、原子力の利用には危険がともなうのがわかっている。


 熱源や動力源としての石炭、石油のほりつくされることはあろうが、これにかわるのが原子力であるというのは、原子力関係者の我田引水ではなかろうか。このことをうたがわずに原子力・原子力とさわぐのがよいことかしら。石炭、石油がなくなったとしても、エネルギーにこと欠くことはないハズである。エネルギーは増しもせず減ることもなく不滅であるものである。動力とか熱そのものにエネルギーがあるとはおかしい。地球は地球のあるかぎりエネルギーを供給してくれる太陽をもっているのである。太陽からのエネルギーの動きは全く無害であって、それを利用すれば熱源にも動力源になる。


 原子力の利用では人間に有害な放射線をさえぎるための設備で軽いものはできそうもない。原子力を火薬の代わりに土木工事に使うことも望ましくない。ビキニの灰はこのことを物語るものである。


 原子力の利用は、兵器としての目的において最も意味があることはたしかである。原子力は瞬間的に大きい力をだすことに最も有効なものである。継続的な動力源なら原子力でなくても他に代わるものができる。

 太平洋戦争において、科学者の夢といわれた原子力の解放の研究が、巨額な経費の支出によって行われたのは、戦争に勝つためにアメリカが必要としたからである。太平洋戦争がなかったならば、原子力の解放は、いまでも机上の空論であったであろう。

 平和利用が盛んにとりあげられてはいるが、原子力は本質的には破壊兵器として有効なもので、原子力の研究に軍事的の意味が強いのは当然である。平和的利用というが、裏を返せば、それは爆弾とするための貯えであるとうたがわれるのも仕方がない。こうした、うたがいが晴れないのも、戦争の可能性が消えていないからである。


 原子兵器の使用の中止を叫んで要求するよりも、世界の国々の互いに和することを願う方が先である。戦争がなければ、原子兵器の製造は無意味になってしまうのである。


 原子力の研究の目的は、決して軍事上の兵器をつくることではなかったのである。質量はエネルギーであると理論的につきとめられたことを実験的に証明しようとするのが目的だったのである。この目的が、太平洋戦争を縁として原子爆弾として達成されたのである。

 原子爆弾による広島と長崎の悲劇も、物質に固定されていたエネルギーの解放という科学の成果が、戦争に使われたためにおこったことである。まことに因縁とはいえ驚くべきことだ。すでに科学者の目的とした、物質の本体を知ることはできたのである。しかし原子力の解放による放射線が空気を汚染するときは人間をはじめとして、あらゆる生物に有害であることもわかった。生活環境がかわれば、これまでの状態に適応していた生物は死滅することは道理によって当然である。

 科学の目的とした物質の本体ははっきりした。これ以上の実験を野外で行い、地球の条件をかえる大人の文字どおりの火遊びは危険である。今日ただいまから野外における原子力解放の実験をやめようと思うことこそ、人間の心でなくてはならない。

 空即是色、色即是空という見解を実験的に証明した現代の科学者の能力は全くスバラシイ。と同時にこうした見解をうちたてていた仏教もえらいものだ。

 原子力の解放は、宇宙の道理を人間自らの手で打破ろうとするムリである。もう、わかったことだ。ムリをやめて道理にしたがって、無限に供給されている太陽エネルギーの利用を考えていこう。

 人間が原子力を解放しようということは、安定になっているものを不安定にするわけで、宇宙の道理に反している。それ故に、原子病による苦しみ悩みを人間自らつくりだすのである。宇宙の道理を言葉であらわした三法印によって考えても、原子力の解放は自然ではないのでムリである。

 仏教は科学に行きすぎがあってはならないと考えさせる。行きすぎをおしかえして、正しい道を進ませようとするのが、原子力に対する仏教の立場である。

 仏教を知らずに科学をもった不幸が、今日の原子力に対する人々の不安を生じさせたことに見られているのである。



( 山本洋一「科学の時代の中の仏教」より )