伝承 仏教神話


伝承 仏教神話 T〜


( 伝承 日向神話 ) ( 伝承 万世一系神話 TU ) ( 伝承 神聖神話 ) (伝承 日本精神神話)


大光寺「坐禅会」



仏 伝 聖徳太子と清浄心 ブッダ言く 如来蔵 ブッダの伝承 人間としてのブッダ 仏教活論序論 仏教と女人


六祖(慧能)の影響 仏教から出た日常語 大光寺資料館 一休語録 盤珪語録 原子力と仏教 六祖壇経とは


ブッダ最後の言葉 仏教思想 U 仏教思想 V 梁楷 仏教とジョンレノン 我国の仏教 生まれつきによる本性


仏国土の清浄 大乗非仏説論 心とは ブッダの遺言 罪なき臨終 悪の内観 仏教思想 T 伝承 慧能


仏陀の理想 自性清浄心 仏教と皇室 仏教と古事記・日本書紀 仏教と十七条憲法 十七清浄句


仏教とわらべうた 仏教と貧乏 仏教と戦争 仏教とユング ブッダと戦争 仏教とアンベードカル 仏教堕落論


文殊大祭 心の真実のあり方 仏陀の意味 魔王の宣言 積極的清浄心 仏教問答T 仏教問答U 清浄経


本性清浄 仏教と国体の本義 客塵煩悩 仏教と富永仲基 仏と鬼 不 浄 仏教の神様と悪魔 伝承庵U 伝承庵


仏教無神論 煩 悩 人間は欲である 仏教の予言 清 浄 怨みは怨みによりて消すを得べからず 仏教と太陽神話


仏陀の平等主義 仏教の四つの特色 仏教を誤解せる人々に 在家仏教 懺悔 温和にして静粛 清浄性


十徳の性格 自在天 眼下の日本仏教 神の観念と仏教の思想 曹洞宗と戦争教学 八正道 ダーウィンと神


慧能までは 巡拝御詠歌 仏陀の清浄心眼 洗浄 日本的霊性と仏教 小泉八雲と仏教 小作人はなぜくるしいのか


戦時住職手帖 仏教の十二原理 皇室と仏教 在家仏教者たち 子守唄(白隠禅師) 永慶廟


世界の仏教徒よ結合せよ 一茶と仏教 仏陀の道徳観 不清浄 大震災と仏教 徒然草と仏教 福沢諭吉と仏教


願文 老人六歌仙 芭蕉と仏教 清浄心を生じるべきである ブッダと笛 ブッダと為政者 空とは お寺で婚活


ダーウィンと仏教 犀の角のようにただ独り歩め 老衰と仏教 仏陀の死 慧能の死 木喰上人の旅と祈り 慈しみ


無と空 萩女と荻女 道元と親鸞 もし私が仏になる時 仏陀の日常生活 仏陀に還れ




< 仏の音訳について >


 仏というのも完全な独立の一語を写したもので、決して仏陀となすべきを勝手に略したものでない。雅語でブッド(Buddha)というのが、最後の母音の落ちた為に、ブト(But)となり、ティが軽い音であるから、仏と音訳せられたのであると思われる。ブッドの母音が落ちると、ブッド(Buddh)となるかの如くであるが、子音が一語の終りに於いて重なって居ることは出来ないから、ブド(Bud)となる道理であるのに、ディはティと、発音上、変るのが規定で、従ってブトとなるのである。而も最後のト(t)は軽いから、単にブ(Bu)ともなるであろうし、少なくとも発音上ト(t)は響かないことにもなろうから、ブとのみ書かれるであろう。此の如く推定して、ホータン語にブコーサ(Bugosa)なる語があって、これが有名なブッダ・ゴーシャ(Buddha-ghosa)に似て居る為に、後者が一層人口に膾炙せられるに至ったといわれるのを見ると、恐らくブゴーサはブッダ・ゴーシャと同一視せられて、ブが即ちブッダを現わすとなすのであろう。


 然しブトとはなって居ないから、前の推定とは同一でないのであるが、それにしても、漢訳の原語が凡てホータン語となって居たとはいえないであろうし、種々なる要素もまた影響もあったであろうから、今は雅語から俗語となる過程に沿うて考察し、而も最後の母音の落ちるという特徴を以て見て行く点で、ブトとなると見て説明せんとするのである。此の点は前のボート・サトに於いても同じである。実際上の証拠では、ボー・サとあるし、又ブとのみあるから、原文にもかくあったのであるかも知れぬが、解釈としては以上の如くにいわざるを得ないのである。故にブトを仏となしたのであって、仏は完全な音訳で、決して仏陀とあったものの略であるとはいえないのである。従って、仏を仏陀の略となすのは、菩薩を菩提薩捶の略となすのと共に、全く誤った見解である。訛は決して常に謬を含むとはいえないものである。


 此の如くにして仏も仏陀も共に完全な一音訳であるといわねばならぬ。仏陀は浮陀・仏駄・浮屠・歩他・浮図・浮頭・勃陀・仏大など種々に音写せられるといわれるが、これ等が用いられた時には、それぞれ初めの字は何れも皆ブと濁音で発音せられたものであって、決して清音でと発声せられたのではないに相違ないと考えられる原語のブトでもブッダでも、如何なる場合にも、清音となることは絶対にないと考えられるからである。後の一字の中、図、頭とあるのはブトのトを表して居ると見てもよし、または、恐らくブッドが主格となった時には俗語ではブッド(Buddho)となるから、それを写出したものであろうと見てもよいであろう。(浮屠は羅什が改めて仏徒となし、僧韋が仏図となしたこと、喪門を羅什が桑門に、僧韋が沙門と改めたと同じといわれる)





(宇井伯寿)