< 原子力の真相 >



 昭和33年の9月1日から10日間、スイスのジュネーブにて第2回原子力平和利用国際会議がひらかれ、原子核融合・化学的見地よりの原子核・アイトソープの利用・原子力用原料物質などについての研究発表と討論とが行われ、世界各国より多くの科学者・技術者が参会した。しかしながら、このたびの会議では、すでに原子核融合は可能であり、原子力発電所は確実に利用できるものとして、技術的改善の問題が主としてとりあげられて、原子力なしには将来の熱源・動力源・電力源は確保できないというような固定化された観念の上で議論が進められたことは私としては残念に感じた。


 はたして、原子力は将来の熱源・動力源・電力源としてなくてはならぬものなのであろうか。ここに私どもは付和雷同するばかりではなく、原子力の真相を考えなくてはならないときがきたのである。


 原子力だ!原子へと科学技術者のかなり多くがバスにのりおくれまいとするかのようになびいていく。まだまだ未解決の問題のある自分たちの専門の仕事すらをもうちすてて、それはちょうど、戦前から戦時中に科学技術者のほとんどが軍事研究によろめいたように、こうした一方的なかたよりは反省しなくてはならない。ところが、現実はすでに原子力の平和的利用をとりあげて利用の可能性をあるとしての動きである。


 たしかに、原子分裂は原子爆弾として巨大な力をあらわし、原子炉による発熱現象は利用をされている。地球表面の今日の状態では不安定で、いわゆる放射線をだしながら自ら分裂しながら安定さへのうつりかわりをしていくウラニウム235の自然のままなる分裂を人為的にさらに早めて、解放されるエネルギーを熱にすることはできたのである。しかしながら、今ではこの宇宙に安定な状態で存在する水素原子を融合させることが人為的にできうるか、どうか。問題点はここにあるのである。因縁所生という仏教の説によれば、この宇宙において存在している元素の原子をつくりだした必要にして欠くべからざる条件(縁)である大なるエネルギーの集中固定が人為的に再現できるか、どうかが問題なのである。


 アメリカの原子力潜水艦ノーチラスとスケーター号が北極の氷原の下をもぐって東より西へと横断をした。ウラニウムの原子分裂は軍事的には利用されているが、経済性のからんだ平和的利用は実は発電にしても採算のとれるものではない。フランスがマルクールというところにつくったGI1という発電用原子炉は、自分で発電はするが、炉内を冷却するための送風用に使う電力の方が多くて、差引きマイナスの発電だという話もある。このたびの国際会議でも原子炉の技術攻善が問題になっていた。原子力利用に必要なる原料や資材についても、大いに調査・研究の大切なことが明らかになった。原子分裂の平和利用は今では理論ではなく、実際の方法・手段である機械・装置の技術で解決することの問題となったが実はこれからが大変なわけだ。


 核融合(実は原子融合)の利用については海のものとも、山のものともわからぬ暗中模索のありさまで、可能性がありそうだから大いに研究をしなければならないとのカケゴエばかりのさわぎである。こんどの会議の会場でも核融合の実験が行われそうだが、実際には核融合ができるというところまできているのではない。


 原子力の平和利用ということは実はもはや科学の問題ではなく、技術の立場で解決すべきであるとの結論になっている。しかし、ここに疑問があるのは技術的だといいながら、技術のもととなる原子力の真相を明らかにする科学の方がタナアゲになってしまうとも考えられるわけである。これまでの科学では、原子力のあらわれたことはたしかであるが、いかにして原子力があらわれるかの説明はアヤフヤである。だが、万物万象の根元をエネルギーとしての正しい見解では、いかにして原子力があらわれるかもわかっている。


 とにもかくにも、現在の地球表面の状態で原子力をあらわす原子の種類は、それが原子として不安定で、いわゆる放射線をだしつつ分裂して安定化をしようとしているものに限られる。ウラニウムが原子力のために大切で、ウラニウム資源の確保に国々が血眼になっているのもこのためである。


 この宇宙のはじめには多くの不安定で原子分裂をした原子もあったが、それらが安定化へのうつりかわりをしたあとに、現在に僅かに残るウラニウムだけを将来の熱源・動力源のように考えての平和的利用をしていこうとするのは、原子力の真相を忘れているためである。エネルギーは不生不滅であり、この宇宙にては不増不減のものである。そうならば、これからのエネルギー源として原子力を利用しようというような言葉は誤っているのである。


 エネルギーそのものは働きをあらわす能力で、万物万象の根元なのである。石油・石炭・水力などは熱源・動力源であって、エネルギーを熱や力としてあらわされる仲立ちではあるが、これらをエネルギー資源というのはまちがいである。現代科学における一つの混乱は、エネルギーを仕事と混同しているためである。

 エネルギー不滅の法則を示しながら、エネルギーが不足をするから原子力を開発しなくてはならぬというようないいぶんがあるのはおかしい。


 大宇宙はエネルギーが粒としてみちみちていて、そのエネルギーの粒の数は全体として不増不滅なのである。エネルギーはつくりだされたものでもなく、つくりだしうるものでもなく、滅し去るものでもない。大宇宙の万物万象はエネルギー、仏教でいう空からつくりだされ、うつりかわりをしているのである。


 エネルギーは、永遠の過去より永遠の未来にわたって存在する絶対なる存在で、仏教でいう真如法性である。科学でいう宇宙的な創造進化は仏教でいう因縁所生・縁起現成である。集中固定したエネルギー(空)が万物であり、万物を必要条件(縁)として流動するエネルギーが万象があらわれるのである。

 集中固定したエネルギーを解放して流動させることことが原子力の真相である。


 エネルギーそのものに不足を生じるから、原子力を利用すべきだという表現はまちがいである。熱源・動力源の不足というなら、原子力などにたよらずとも、それらとなりうる原料物資は動物・植物・鉱物のかたちで地球にはいくらでもある。原子力のみにとらわれずに、まだまだ考えられる熱源や動力源として未利用のものの研究や開発を忘れてはならないと私は思うこと切である。


(「科学と宗教は融合する」山本洋一)