< 如 来 蔵 >



 如来蔵は本来は如来胎と訳すべき原語で、言語のそのままの意味では、衆生が如来を出生する胎であるというのであるし、また、衆生が如来となる胎児であるという意味であるが、如来蔵そのものは仏性と異なったものではない。涅槃経に如来の蔵とあるのがこの解釈を保証する。然し、如来蔵は在纒位の法身といわれる如く、仏性法身が纒、即ち煩悩、と共にある場合を指すのであって、如来蔵といえば必ず煩悩の存することを予想している。煩悩の存するを予想せねば如来蔵とは呼ばれない。故に煩悩を予想しない如来蔵そのものとしては仏性というべきで、仏性は必ずしも煩悩と共に在ることを予想しているのではない。如来蔵そのものとしての体は自性清浄心が煩悩と共に在ると見られた時は如来蔵で、煩悩を全く脱して自性清浄心のみであれば、またこれを出纒位の法身という。従って如来蔵は法界蔵、自性清浄蔵といわれる。法界は法性の意味で、真如を指し、出世間最上であるから出世間上上という。かく如来蔵は衆生を指していうに外ならないが、如来が衆生の中に蔵れているというので、如来蔵と呼ぶとなす解釈と、衆生がすべて如来智の中に蔵せられているというので、如来蔵と名づけるとなす解釈と、果位出纒の如来の凡ての功徳が蔵せられているというので、如来蔵と称するという解釈とが存するが、第三はともかくとして、第一と第二とは、前に仏性について述べた所の二義と同一である。衆生が如来の胎児であるという意味が当然であって、これを解し易く如来が蔵れているともなすのである。従って悉有仏性と同じく、一切衆生皆成仏の考えであって、人間の人格を尊重し、その権威を認める説である。

 如来蔵の名は、仏性の名よりも人間を人間として見る点に於いて親しいというべく、煩悩具足が人間で、その人間が自性清浄心を有し、そこを如来蔵と呼ぶのであるから、清浄のみを見ては人間には親しくない。かく自性清浄心と煩悩との共存を如来蔵となすから、この如来蔵のありようで吾々の日常生活も、宗教的向上の場合も、解釈せられ得る。この解釈の説が即ち如来蔵縁起説であって、如来蔵が煩悩の為にその姿を隠す程になっているのが、吾々の日常生存であり、如来蔵が現われるに従って、日常生存は浄化せられるのである。如来蔵そのものと煩悩との相関関係を明らかにする所に向上心も起るのであるが、如来蔵そのものとしての自性清浄心は、吾々にあっては、殆ど無きが如くに覆われて居って、その点如何にも、自性清浄心が煩悩に浸染せられ、清浄性を失った如くであるが、然し、自性清浄心が全く無となるのではない。無となれば、もはや如来蔵ではあり得ない。然るに、また、かかるあるか無きかの清浄性が、漸次に増上して純粋清浄のみとなった場合にも、もはや如来蔵とはいえないものである。自性清浄心が煩悩に染められると表現するが、これは自性清浄心の体までが煩悩に汚されるというのではなく、即ち清浄性を失うのではなく、単に隠蔽せられることをいうに外ならぬと見ねばならぬ。故に衆生はこの点に於いて凡て等質で、相互に尊敬し合うべく、また自らのみ卑屈に陥るべきではなく、励み励みまして、共に道に努めるべきである。何時かは必ず人生最高の目的を達成し得る。この如き考えは、固より仏教の最初から考えている所であり、その根本思想であるが、古くは如来蔵などの術語は無かった。しかし何れの時代にもこの考えの失われたことはなく、大乗に及んで漸次術語が生ずるに至ったのであるが、恐らく涅槃経などが如来の蔵と呼んだのが古いものであろう。華厳経に如来蔵縁起の考えの横溢していることが、看取せられるが、奇なる哉、奇なる哉、一切衆生皆その中に如来智を有することや、の文の如きも、その思想の現われの一たるに相違ない。然し、この文は何れかといえば、衆生の中に如来が蔵れていると解する方面を示したものというべく、これに対して衆生は如来の中に蔵せられているとなす方面は、むしろ、三界虚妄、但是一心作といい、十二因縁分皆依心という方に直接の起原が認められる如くである。三界は吾々の生存で、吾々はこれを実在となしているが、これは本来は仮現である。仮現というのを虚妄と呼んだのである。虚妄は必ずしも誤りというほどの意味でなくして、転倒とか仮現とかの意味に見るべきものであろう。一心は真心で、理心をいうに外ならないし、自性清浄心である。自性清浄心のありようで、迷の三界とも、悟の境界とも現われるのであって、自性清浄心からいえば、悟の境界の現われが当然で、これが真実であるから、迷の三界の現われは転倒であり、仮現であり、虚妄であるといわねばならぬのである。所謂世間仮現である。虚妄はあるべからざるものがあるとして現われ居るのを指すから、必ず掃蕩せらるべきものであるが、これも、ともかく一つの現われ方であって、一心の中に於いての蠢動である。三界を実在と見ている場合には、一心即ち自性清浄心は煩悩と共にあるのであって、そこに如来蔵が考えられて来る。また十二因縁も吾々の日常生存を指すのであって、日常生存を十二項に分けて教えたから十二という数字が用いられるのであり、十二が日常生存を表わすのである。十二の一一を分という。因縁は縁起の意味で、日常生存が全く縁起に外ならないことをいうのであり、日常生存は、また、吾々の人生、世界を指すに外ならぬ。吾々の日常生存以外に、人生も世界も存するのではないから、凡て同じものを指していうているのである。故に一切は凡て縁起であり、縁起の中心は心であるものである。即ち心に於いて凡てが統一せられて、迷の三界とも悟の境界とも現われているのである。ここを心に依るというているに外ならない。ここにも如来蔵が考えられて来る基が存すると思われる。この如く如来蔵思想は必ず自性清浄の如き理心を考えているのであって、理心を考えなければ、この思想は起るを得ない。然し仏教の起った当時には理心などというものは考えられていたのではなく、唯人の心の誠を考えて居たのみである。従って誠が理心とせられるに至ったといえるが、それは大乗の如き進歩した思想によったからで、理論的考察の結果である。然らば、理論を除いても、趣意は失われて居ないのであるから、実践的には、理論なしの修養でも事足りるものである。現代は理論のみを好む理論過多症に陥り、実践欠乏症または実践皆無症が澎湃として溢れているがまさにこれ世の危険である。この間に於いて、誠心の一点の光明が閃くのは、何とも、望ましいことではないか。如来蔵縁起はまさしくこの光明となるものである。


(宇井伯寿)