< 魔王の宣言 >



 自分は世に隠れもない魔王である。折りさえあれば人間世界を混乱の極に導いて、人類を滅亡せんとするのが自分の使命だ。今度もどうやら世界はまた自分の手中に収められたようである。思う存分に働いてやろう。人間は今も尚自分をよく了解しないような風に振舞って居る。が、それは人間が人間自身の性格を十分に了解しないところから来て居る。人間が今少し深く考えてくれると、自分と人間とは元来一つのものだと云うことがわかるのである。それをわからせる好機会がまた来た。自分は自分の使命につき少しく語って見たい。


 自分即ち魔王の本性は力だ。力が向こう見ずに、自由自在に躍動するところには、必ず自分が居る。人間世界は自分の仕事場に外ならぬのである。人間は不思議に饒舌を好む、如何に彼等の”おしゃべり”であることよ! 彼等はあらゆる方法で文字を弄し修辞に耽る。この点において彼等は実に巧妙を極めて居る。人間と云うものが、この世に現われて以来、彼等は如何に多くの書物を作り、如何にその「三寸の舌」を動かして「懸河の弁」を弄したことよ。「真面目になれ!正直なれ!他を愛せよ!平和を将来せよ!」・・・これが彼等の常套語だ。併し自分等仲間は、人間と違って、そんな上すべりなことはやらぬ。わしらはいつも実践第一主義だ。だまって考えて、だまって計画して、だまって実行する。人間のように空理を並べたり、贅弁に時を浪費しない。考えたことは即時に実行に移す。自分等の本質は力だ、力は行為だ。それ故自分等は人間共の最も雄弁なとき、私かに彼等の、「無意識」内に入り込む、そうしてそこに本来在るものを揺り動かして見せる。それは自分等の影である。この影が眠りから覚めると人間は神とか仏とかの名で造り上げた表玄関の無意味な”いかめしさ”に驚く。が、彼等は直ちにそれを取り毀さんとはしない。まづ更にこれを繕わんと弁明する。そうして事実の上ではその玄関の基礎の下に大穴をあけるのである。元来魔王である自分は言訳をしたり釈明をしたりすることが嫌である。何も云わずに、やるべきことを直ぐに行う。玄関をこわすなら直ちにその行動に出る。人間は理屈を云いながら、行為は全くその反対である。摩王は”ちゃん”とそれを承知して居るので、表向きに人間とは論議せぬことにして居る。まづ彼等の「無意識」に手を著ける。そうすると彼等は自分の計画の”つぼ”へ”ちゃん”とはまり込んで来るのである。


 例えば先頃の第一次世界大戦と云って居るものを見よ。これは自分が”しかけた”ものだ。思うように阿鼻叫喚の地獄変相を演出さしてやった。人間はびっくりした、が、それは人間の「無意識」に秘めているものの外面に現われたにすぎないのだ。人間の奴、自分の姿を目の前に見せつけられて、びっくりするとは、随分間抜けたはなしだ。併し人間はそのように出来ているのだ。戦後は暫く大人しくしていた如くであった。実際戦争が地獄の変相なので、自分即ち魔王得意の場面なのだけれども、人間共には、現実にそれに覿面すると少しは恐ろしくなると見える。併し自分はそんなことで人間共に気兼ねする必要はないのだ。また第二次世界戦争を企んでやった。二十年三十年というような時間は、自分から見れば”ほんの”束の間だ。今度は第一次よりも、もっとひどくやってやった。負けたという国々の奴等、大分困っているようだ。。勝ったと云う方でも決して生優しい事はない。この数年間わしも大分年来の渇を癒したというわけだ。地獄は実際人間共の殺し合って居るときだけの話でない、所謂戦後と云う時代までも延びて行くのだ。あるいは後者の方がわしから見れば面白いようでもある。人間共は却って此方を恨めしく思っている、・・・「どうして自分供の「無意識」の理窟を”ひっくり”返して、これほどまでに悲惨事を実演せしめたか」と。摩王としてはそんなに怨まれる理窟はない、摩王は事実の上において人間の敵ではなくて、彼等も最も親しき心からの友達なのだ。それがわからぬ人間だから始末におえぬ。番号付けになった世界戦争は、第三次にも第四次にも及ぶのだと云うことを、彼等はまだ知らぬのか。兎に角、こうやって行くうちに、魔王最後の目的である人類の壊滅が成就するのだ。そのときわしは世界の隅々まで潜ませてある一族徒黨を一堂に会して一大饗宴を張るつもりなのだ。


 近頃頻りに新聞やラジオを賑わして居る日本軍の残虐行為、これは必ずしも神風の吹きそよぐと云う秋津島根の「み民われ」共の行為とは限らぬ。ゲーペーウーでもゲシュタポでも皆やって来た。或はこれからも、どこかで、だれかに、やらせることにしてやろう。このような行事は事件としては大したことではないが、その性格から見れば申し分ない。自分は何事も大掛かりでやることが好きだ。世界と云う大舞台で地獄変相を全面的に演出する。これより以上に面白い事が、摩王たる自分に取りて、あるはずはないのだ。


 人間は虚偽の塊であるのに、そうでないような面して、何が真理だとか、愛だとか、慈悲だとか、正義だとか、平和だとか云って居るから、おかしくてならぬ。摩王はこの点で人間と相反する。それでわしは人間にはいつも真実を話して聞かせる。「平和、平和」を云わずに戦争せぬ人間はない。戦争はいつも平和のためだと、彼等は云う。併し、戦争で平和の将来せられたことが人間の歴史にあるか。人間の歴史は戦争の連続だ。その間に少し平和時代があるように見えるが、それは次の戦争の準備に他ならない。それが魔王の計いなのだ。虚偽を好む人間は、表にはわしを厭がって居る、何かと理屈をつけて、その然る所以を弁明する。一寸きくと、わしも「そうかな」と思うようなこともある。が、人間共の「無意識」を攫んで居る自分には、彼らの本音のどこにあるのかを知りぬいて居るので、自分の計画は、そのような弁明などに頓着しないで実行から実行へと移して行く。今わしは第三次世界戦争を準備して居る。


 それでわしは宣言する。人間よ、汝等の虚偽を去れ。哲学者や宗教家などの云うことを聞くな。彼等は何れも弱虫だ。蒼白な顔をした、栄養不良の徒輩ではないか。彼等は”生”の何たるかを知らない。”生”とは力だ。そうしてこの力が魔王の原理なのだ。力のない奴は力を忌む。それは当然のことであろう。併し摩王は力そのものだ、生そのものだ。力のない、生気のない弱虫共を踏み躙って前進また前進せよ。前進とは戦争を意味する。戦争ほど力の充実した場合を見せつけるものはない。戦争には釈明はいらぬ、有る限りの力で相撃つのだ。前面に横たわるものは何でも破壊する。力は破壊のまたの名だ。情けとか容赦など云うことは、逡巡を意味する。逡巡は力の減損である。そのような事に囚われて居る限り戦争は出来ぬ。摩王の活躍は鈍る。


 魔王の自分は”力”そのものだと云うことを”はっきり”と宣言する。力はその環境に対して立つものである。ただ立つだけでは力は実現せぬ。力は潜在すべきでない。如何なる事情の下でも顕現すべきである。日本人は力を「御稜威」の名でカムフラージュする。併しそれは虚偽を好む人間の言葉だ。実性には変わりはない。日本人は殊に言葉を綾なす習癖を持って居る。何れにしても自分は「御稜威」の名で以て自分のやろうと思ったことをやった。ドイツではヒトラーの名で行なった。そうしてこの名の下で如何に多くの人間共が躍ったことか。東亜でも欧州でも地獄そのままをこの世で演出さした。自分は近来これほど溜飲の下がったのを覚えたことはない。


 日本では殊に特攻隊なるものを組織させた。地獄へ行くにも”しょげて”行くより、跳り狂うて行く方がよい、力の充実がなくてはならぬ。親や妻や子などを構って居る遑はない。地獄の火は今そこに燃えて居る、そこへ飛びこまずに居られようか。彼等は「国家」のためだとか、「天皇」のためだとか云わされた。その「国家」や「天皇」の正体は何であるか、そんなことを考えて居ては、戦争は出来ぬ。群集心理は反省を許さぬ、そこが自分のつけこみどころである。群集心理は「無意識」を狙うのは常である。その「無意識」に魔王の大御座がある。摩王は内から動いて出るときに一番その力を発揮する。人間の奴はそれで自由意思で行動して居ると自惚れている。摩王たる自分はここでもまた大杯を挙げる好機が見付かるのだ。自分は喋らぬ、が、常に活動する。実行する人間が「御稜威」とか「国家」とかの名で、自らを殺し、他を殺し、親を殺し、子を殺し、妻を殺し、隣人を殺し、友人を殺して、それで如何にも愉快だと云う。誰もかも殺し尽くされて、どこに「国家」があるか、護持すべき「御稜威」があるか。人間は利口のようではあるが、、地獄に当面すると、平生の虚偽を棄てて、”まっしぐらに”魔王の剣先に突きかかる。わしはその生贄を剣先に突き刺したまま、その生贄の、水を離れた魚のように、はねるのを見て、快然一笑するのを禁じえないのだ。


 摩王は無慈悲だと人間は云うが、人間の一皮を剥ぐと、皆わしらの仲間なのである。自己を知らぬ人間も情けないが、是非もない。愈々となれば何れもその本性を発揮するのだ。摩王は言説を弄せぬ、只実行のみだ。人間はその実行の面でわしの弟子だ。言葉では哲学者でもあり、宗教家でもあるが、そうしてその面ではわしは人間に一歩を譲るが、それが人間の真面目でないと云うことは、実行の面で直ちにわしの膝下に礼拝してくるのでわかる。実行面の人間は摩王そのものではないか。


 お互いに知りもせず、従って憎しみも親しみもないもの同士が、敵だ味方だと云うと、あらゆる武器・・・凶器を持ちだし、発明し合って、殺し合う。当の相手、即ち武器を持って向かって来るものだけを殺すのではない、直ちに「敵」なるものの都市に港湾に村落に突入して、一般の住民をも手当たり次第に殺しまわる。女子でも子供でも年寄りでも病人でも、また平和の愛好者と云うものでも、何でもよい、爆弾で焼夷弾で原子弾で、一挙に爆破し、焼殺し、窒息させる。それだけでない、種種の様態で負傷させる。これがまた人間としては堪え切れない呵責である。併し彼等はお互いにそれを行なって、そうして「敵」に克った。何百人何千人何万人を殺戮し懺滅した味方は勝利だと云って、快哉を連呼して已まぬ。人間はわしの仲間、本当の友達でなくて何であろうか。人間が自ら歎いて「われは神の子」とか、「神の親戚だ」とか、「仏様の仲間だ」とか云って居るが、それは云うだけのことだ。「無意識」の底から面を出す、その面相は菩薩面か夜叉面か、人間はその時の面をまだ見たことがないと見える。併し見えないでよいのだ。わしはこれから第三次、第四次と、次第を追って強度な虐殺機械を発明さして、人類滅亡の時期を益々早めさしてやる。実に愉快だ。わしもそれで生き甲斐がある。


 千人死んだから千五百人生んでやると云う「神」もあったと云うが、それは益々面白い。わしは人類を亡ぼしてやる本願だが、実際は一人も居なくなったら淋しいだろう、わしの仕事がなくなると云うものだ。それで死ぬよりも余計に生んでくれれば、わしも魔王の本相をこの上に発揮させてやろう。摩の力と云うものは相手が殖えれば殖えるだけ増大して来る、それが力の本質だからだ。生め、人間共、いくらでも生め、片っ端からわしの餌食にしてやる。生の力は性の力で、性の力は魔の力だ、それで生れる人間は直ちに『魔性』ものだ。何れ原子爆弾の目的物にしてやる。そうして、自分は一一その焼跡を点検して、自ら欺くことに慣れた虚偽の人間共が、どのような姿で焼け野原を荘厳して居るかを見てやろう。速須佐の男の命は青山を泣き枯らして枯山にし、河海を泣き乾かしてしまったと云うが、彼は馬鹿だ。何のために泣いたか。狭蠅なす悪神の声音、それから起こる万物の妖い、悉く汝の泣きの涕から出たように書いてあるが、そんなに泣く必要がどこにあったのか、いらぬ話だ。それよりも、汝の本性は魔そのものなのだから、それをそのままに発揮すればよいのだ。兎に角、八百万の神々で自分はお前が一番好きだ。実際泣くだけは女々しかった。泣くなどしないで、積極的に魔の威力さえ出せば、高天原も何もかも悉く焼け枯らしに枯らしてやることが出来たのだ。日本の“力”の崇拝者はドイツのそれらと同じく、汝等の「祖国」、「萬の国の祖国」と云うものを亡ぼしたではないか。高天原もキリストの天国も追々にやっつけるぞ。


 人間と云う奴は元来が矛盾そのものなのだ。摩王である自分にその「無意識」を自由に支配させておけばよかったのに、何時頃からか自分の外に今一人の”わからずや屋を住みこませた。”こいつ”が曲者なのだ。自分は”こいつ”のために時々やりこめられる。幸いにそれは口の上だけだ。自分は黙々として実行実践で行く。そうすると、例の曲者の男、自分は困り切って居るのだと思って、好い気になって喋り続ける。が、自分は頃合いを見計らってそろそろと実行に取りかかる。相手の曲者は”びっくり”するが、虚偽の人間は却って喜ぶ。彼等は本音を吐けるからだ。


 千人生むとか殺すとか云うが、すべて生まれるものは必ず何かを殺して生きて行く。生くるものは悉く殺さずには居られないのだ。生くるとは殺すことである。それで動物も植物も殺し合う。中にも人間の奴はただ殺さぬ、計画的にやることにして居る。動物は敵に突き当たれば殺す。人間は知性のお陰で殺す前に考える、そうして殺す。それで殺すのも「大量生産」的にやってのける。原子爆弾がそれだ。動物は残忍で嗜虐性を多分に持って居ると云う。猫や獅子が相手を弄ぶのを見るとわかると云う。併し人間はそれ以上だ。こうやればこうなると、先々から”ちゃん”と企んでおいて、その企み通りにやる。嗜虐性の最も摩的なものである。涼しい顔で殺戮をやるのだから、魔王の自分も時には顔負けする。が、それはもともと人間の魔性から出るので、自分は大いにそれを頼もしく思う次第だ。


 殺すのが魔の所為でまた実に人間の所為だ。殺すことが好きにならぬと、人間も本物ではない。生きるものは殺さずには居られないのだ。丁度生きるには食べなくてはならぬ、飲まなくてはならぬように、生きるには殺さずには居られないのだ。人間はそれを組織的に科学的にやることにして居る、それが人間だからである。それで戦争は人間の殺生事業として最も組織的に科学的に行なわれる。殺すことが嫌いな人間は居ない。色々の理窟をつけて戦争をやるが、それは表向きのことだ。偽善を好む人間としては、爾かせざるを得ないのだ。それで彼等は魔王の魔なる所以を口で攻撃して、手では魔の所業を憚るところなく援助する。人間は実に吾等魔族にとりては絶好の”おもちゃ”である。地獄がいやだと云って逃げまわりながら、地獄へ突貫することを辞せぬのだから面白いではないか。人間世界は実に吾等の魔技を演出するに好適の場所だ。


 宗教だとか霊覚だとか云う奴も人間仲間に居ることは事実だ。そうしてそれがいつかは魔王の宮殿を震撼せずにおかぬと云いくさる。時には吾等魔族も一寸”びっくり”することもあるが、畢竟じて、それも大したことはないのだ。なぜかと云うに、そのようなことには、人間はあまり耳を仮さないからだ。群衆は自分の仲間である。これさえ手なずけておけば、霊性など自然に沈黙してしまうはずだ。生の原理、即ち力は憎悪である。憎悪なしには力は発揚せられぬ。弱肉強食は娑婆の真相だ、そうしてそれが地獄なのだ、摩王たる自分を崇めずには居られないのだ。憎め憎めとヒトラーは教えた。日本の奴等はそれを真似た。ゲーペーウーとゲシュタポの悪戦を見ると、如何にも悪鬼羅刹の闘争であった。自分の人間世界における指導力の如何に絶対なりしかを見るべきではないか。また愛とか大悲とかと云うな、汝等人間共よ、それは汝等の”がら”に相応しからぬ言草だ。


 それから、汝等のうちには戦争礼讚をわしのように云うものもあるが、それは大分見当違いのところを狙って居る。彼等は戦争で心身の鍛錬が出来るとか、精神力を強度に緊張させるとか、これから得られる擬神の心理には貴いものがあるとか云うのである。併しそのようなものは戦争ではない。戦争は、兎に角、殺人だ、戦闘員でも非戦闘員でも構わぬのだ、劫掠一本槍だ、破壊し得べきすべてのものの破壊だ。これがなければ戦争でない。これは戦争の行過ぎだとか、横道だとか云うものもあろうが、それは大問題だ。この行き過ぎのない戦争は戦争の本筋ではない。生の力は、殺を適度に節約するなどしないものである。それは力の減殺である。力は一たび弦を離れると、的に当たろうが当たるまいが、そんなことに頓着しないのだ。このこの無鉄砲のところが力の本性なのだ。


 力は耽溺を好む、陶酔を好む。規律や節制は力でない。力が魔王の胸中から直接に流れ出るものだからである。力の節制など云うことは、自家撞着の言分けである。力が奔放不覊であるときその真価値を発揮するものである。酒に酔うことは狂うことだ、狂わぬ酒は本物ではない、酒は狂わすように出来て、狂うようにとて呑むのである。力もその通りだ。一たび力の洗礼を受けたほどのものなら、その力の限りを働かせなくてはならぬ。ここで止めておこうなど云うのは、まだ力を知らぬものだ。日本軍がシナでやった惨虐事も比島や南アジアでやったのも、皆自身が何等の拘束を受けないときに、どのような働きをするものかと云うことを証拠立てて居る。こうなくては力は力ではないのだ。日本人はこれを「御稜威」だと云う。誰の「御稜威」を指すかは知らないが、魔王たる自分から見れば、それは何れも魔王の「御稜威」に外ならぬのだ。


 さきに宗教は自分の立場を覆えさんとするものだと云ったが、必ずしもそうでない。宗教またはその名に似せた「信仰」は時によると自分に協力することが、いくらもある。それはその「信仰」が本当の愛または大悲に根ざして居ないときである。即ち力に対する信仰であるときである。神話か小説に根拠をおいた政治的信仰はいつも力を最後の棲家として居る。この信者は所謂「御稜威」信者である。それで彼等はその名によりて力の行使を檀にする。これが自分の狙いどころだ。自分はそこから這入って信者共を自分の麾下に引きつける。彼等は喜んで自分を礼讃する。そうして狂信者と云うものになる。力は知的反省や道徳的躊躇を許さぬからである。彼等は己に逆らうものを「御稜威」の普及を妨げるものと信じて、これに対してあらゆる迫害を加える。魔王万歳だ。


 狂信ほど自分の味方になるものはない。狂信から出る力は実に魔王的だ。自分から云うのもおかしいが、彼等(狂信者)は自分の落し種なのだ。自分は実行第一主義を信奉すると云ったが、その実行のうらには、いつも深い陰謀があり、遠い嘘がある。遠いと云うのは一寸先の見えぬと云う義である。自分は”うそ”の創造者だ、人間世界に初めて”うそ”を作り出したのは自分だ。自分の本来は力の行使であるが、この行使は只実行すると云うことではない。それだけでは行詰まりする。力は分別によりて助けられ、進められなければならぬ。併しこの分別の目的は力の節制とか反省とか云うことでなくて、力の彌が上の進出、奔放な進出であるから、分別の基調はそこになくてはならぬ。即ち相手を斃(たお)すことであるから、そうしてその相手は、有罪と無罪とを問わず、強と弱、賢と不肖、智と愚・・・そんな事は一切不問に付してあるのだから、手当たり放題に斃すのだ。わしはそのような事には直接に手を出さぬ、人間をしてやらしめるのだ。人間をして”うそ”をつかしめる、無い事を作り出さしめる。事実を勝手に曲解せしめる、互いに殺し合い、責めさいなむようにと云うのが目的なのである。この目的さえ達すればよいのだ。目的のためには手段を選ばない。随分悪辣な陰謀と”うそ”と策略・・・それは外交とか政治とか、治安維持とか、国防とか、国体擁護とかその外色々の名で行なわれる策略・・・で、最後の目的、即ち人類相互の殺し合いを達成せんとするのだ。生は、力は、”うそ”を作り出す。これは敵を欺くためだけではないのだ、自らをも欺こうというのだ。人間は不思議に自ら欺くことを好む。これが彼等のお喋舌の原因なのだが、それも実は魔王たる自分の”からくり”なのだ。いくらでも自分で喋舌って居ると、人間はそれに酔って来る。そうして何だか自らそのものの如くなったように心得て来るのだ。ここに魔王の”つけこみ”得る”すき”がある。摩王は力で、実行そのものだと云うが、それでも中々の苦労はある。人間の取り扱いは他の動物並みに行かないのだ。それがまた一種の興味をそそらぬでもない。人間が平生のお喋舌に反して、無闇の殺戮行為をやるときの人間の相好と云うものは、平生のに反映して一層の悽慘味を加える。そこが地獄変相の至極で、わしらの最も快適とする場面だ。


 大殺戮の後に来るものは何を意味するか、これも魔王の胸中に”ちゃんと”書かれて居る。敗者は負けて殺されたと云うところに、恨みの骨髄に徹するものを覚える。勝者は敵を殺し尽くしたと云って喜び勇み、思いあがる。恨みと驕りとはまた魔王の支配下にある。殺して血を流すだけでは自分の勤めはすまない。彼等の心の中へ這入り込んで、また来たらん年の大殺戮を考え出さしめるのである。それが二十年か三十年か乃至は百年後でもよい。何かでまた屹度今”くすぶって”居るものを燃え上がらせるのだ。すると今度は第一次第二次に倍した惨禍が地球の全面を蔽うだろう。わしはそれを待って居るのだ。


 戦争後の相互間の魔性的心理態もさることであるが、それを外にしても、例を日本にとって見よ。焼け野原の焼け残りのトタン張りの小屋はどうだ、壕生活はどうだ、ボロを着て、リュックサックを背負って、芋や大根の買出し部隊はどうだ、朝から晩まで食糧漁りはどうだ、石炭の穴がふさがって掘り手がないと云うので、今度は足止め、輸送止めだ。追剥も泥棒も強盗も人殺しも闇行為でのただ儲けも、到るところで横行する。社会の秩序はこれから愈々乱れよう。食糧難は人間をどこまで押しつめるかわからぬ。ここにもわしの仕事の鮮やかさが見えるであろう。殺戮業は魔王自身で指揮するが、それから後の非法行為はわしの手下の仕事だ。今度は彼等が一生懸命に御奉公するときなのだ。魔王の「御稜威」の如何に光輝あるかを仰ぐがよい。「日本精神」を叫んだ汝等の目の前に展開する魔王の力の凄まじさを、汝等は何と見るか。


 近代の人間は科学と云うことを連なりに叫んで居る。これが進歩すれば人類には戦争はなくなると。ここに人間の奴等の智慧の不足がある。いくら科学が進んでも、摩王たる自分が力の支配を手に握って居る限りは、科学もまたこの魔王の力の権力下におかれなくてはならぬ。見よ、汝等が発明し製造した原子爆弾を。これがまづ何処に何のために使用せられたかを考えるがよい。力が近代人間の生活を指導する原理である限り、人間の発明し発見するすべてのものは、力の増進と応用でないものはない。近代の人間で世界のどこの隅へ往っても力の礼讃をやらぬものはない。戦争はこの力の最も端的に現実化する事象である。自分の支配するところでは力の加わらぬ尺寸の土もないのだ。科学も何も皆わしの力で動かさずにおかないのだ。もう暫らく見て居るがよい、今日の原子爆弾も両国の花火のようになってしまうに相違ない、これよりも幾層倍を超えた凄惨を極むる爆弾が製作せらるにきまって居る。原子爆弾は間もなく玩具となるであろう。そのときはわしは麾下の魔徒を集めて人類滅亡の凱歌を高らかに謡うのだ。


 併しこれは大きな声では云われないが、自分にも悩みのないことはないのだ。原子爆弾で焼き尽くした焦土の中から青々と芽を出す草があり木があることだ。大地の懐から太陽の光を仰いで出て来る不思議な力、この力はわしの力よりも強いのだ。これは魔性のものでない。力以上の力だ。不思議にわしの力を無力にしてしまうのだ。人間の奴はこれを霊性的だとか云って居るが、兎に角、怪しからぬ働きをする。わしと同じく人間の「無意識」に生きているようだが、わしの力ではその正体をつきとめられぬ。時にはその存在を無視しても見るが、どうもわしの思うようにならぬ場合がある。それが予期しない方面・・・或は予期不可能な方面・・・から、いつのまにか、頭を擡げて居るので困る。焼け野原から芽生える青草のような奴、霊性とか何とか云って居るが、こいつを一つ何とかしてやりたいが、これだけは、ままにならないのだ。それで余り大きな声では云われぬのだ。人間の耳へ入ると”とんでもない”ことになる。が、この霊性的自覚から芽生える大悲と云うわしの見えざる相手、わしを遂には取りひしぐかも知れない相手・・・大敵ではあるが、自分としては出来るだけの魔神力でこれに抵抗して見せるぞ。相手もわしを負かすには容易ならぬ努力を要するのだ。わしは名にし負う魔王である。


 日本の奴はわしの「御稜威」の力で大分困って居るようだが、或る方面から見れば、彼等は却って霊性に生きる機会を与えられたものだ。世界平和の宣伝の根拠地がここから発祥するかもしれない。そうなると魔王の面目は丸潰れになる。わしは大に力を出して、日本の奴を益々苦しめてやろう。彼奴等を試験するには好機会だ。


 但々何とかしてあの焦土の下から萌え出る不思議な力以上の力を、蹂み躙ることさえ出来ればよいのだがな!



(この一篇は欧州に於ける第二次世界戦争勃発直前に発行せられた英国の『哲学』雑誌の巻頭にマフ(魔王)の名で書かれて居るものから、示唆を得て起草したものである。)



(鈴木大拙)