< 人間は欲である >



 一体人間というものは、いかなるものであろうか。ここに人間というたとて、何も立って歩く人間ばかりについて云われることでなく、すべて生きている一切のものに通ずるのであるけれども、我々の問題が、我々人間に関することであるから、特に人間だけについて云うのであるが、人間の本質、人間の根本要素、人間の中心的な核心は何であろうか。こう突きつめて見ると、人間は欲である。欲から成るものである。欲によって動くものであると言わざるを得ないであろう。人間の動き、人間の行ない、人間の作り出したもの、そのもとへ戻って行くと、欲がすべてのもとになっている。人間の偶然的、付属的の一切を除いて、その後へ残るものは生命であり、生命は欲そのものに外ならないから、人間の本質が欲であることは争われないことである。釈尊はこの人間を本質を掴まえるところから、人間を考えて居られるのである。それで釈尊に従えば、人間は渇愛がその本質である。中心核であると云われる。この渇愛とは喉のえりつくように乾いた者が、水を求めずには居られないような、烈しい欲と云うことであって、この烈しい欲の内容は何であるかと云うと、生命欲である。生きんとする欲望である。生きとし生ける者は、何でも生命欲のないものはない。皆烈しい生きんとする欲望を持っているものである。否、烈しい生きんとする欲望そのものが、生きているものであるという方が、本当の顕わし方であろう。この生命欲を釈尊は「有愛」と呼んでいられるのである。有は存在、生存という意味であって、その存在、生存の渇愛ということである。人間の働き、人間の作用、みなこの有愛から起って来るものである。動物植物の世界ではそういうことがないようであるが、人間になると、一方こういう生存欲があると共に、また一方として、自分の生命を亡ぼしたい欲望を持つものである。早く自分の生命に終りを告げしめたいと考えるものである。こういう生命否定の欲は、生命存続の欲と共に、我々の心の中に、両頭の蛇としてあるのであるかというと、そうではなく、一つの生命存続の欲が、他の縁に依って形を変えて、生命否定の欲となるのである。丁度、せかれた水が逆流するように、生命欲がせかれて、思いのままにならないと、反対に生命否定の欲となって顕れて来るものである。それ故に厭世自殺の考えも、つまりは、生命に執着することから生ずるので、生命欲がその根底をなしているのである。好きで好きで堪らなかったものが、何かの拍子で嫌いで嫌いで仕方なくなる。全く正反対のことであるが、畢竟、そのものの支配を脱し得ないのである。守銭奴のように、金を大切にしていた人が、銀行の破産とか何とか、思い掛けないことで痛手を受けて、今度は金銀の浪費者となるようなことがあるものであるが、何れも金の支配下にあるので、あって金の意味を知って使いこなしているのではない。これと同じい道理である。この生命否定の欲を「非有欲」というのであって、非有は非存在、非生存ということである。この非生存の欲望は、生存欲の変態に外ならないのである。


 今度は生存欲が、実際に動いて来る場合どうなるかと云うと、生きるためには、外物を摂取しなければならないから、眼に見、耳に聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身で触れる外境に対しての直接の欲となって来る。これが「欲愛」と呼ばれるものである。我々の眼前の事物に対して起こす欲望である。この欲愛も生存欲、即ち有愛に根ざすもので、有愛の顕れた形に外ならないのである。眼に見る美しい形、耳で聞く立派な音声、鼻で嗅ぐ香ばしい匂い、舌で味わう美味、身体で触れる柔らかい心善い触感、これを五欲を起す性質というのであるが、そういうものがあるから、それに引かれて、欲が動いて来るのである。また欲の性質から分けて、財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲を五欲ということもある。財欲は己を養う資材として財宝を欲すること、色欲は美しい色々の形や色や、または男女間の性欲的なもの一切を含めて顕わし、飲食欲は身体を養うために必要な食物飲物に対する欲、名欲は名誉の欲、睡眠欲は申すまでもなく身体が疲れた時、休んで眠りたいという欲を云うのである。然しこの後の五欲は後世に云い出したことで、釈尊の仰せられた五欲は前のものである。

 こう云う風に、我々の欲は生命欲がその源泉であって、これが三種の欲となって居るのであるが、また一方から、人間を考えて見ると、人間は正しい道理を知らないという無智を持っているものである。生れて生長して大人になる。その間色々の教育を受けても、なお人間は知らねばならぬ道理を知らないで居るのである。こう云う云い方は、人間を侮辱したことのようであるが、然し実際そうだから仕方がない。色々の知識は持っている。理窟は覚える、相当利口そうなものであるが、正しい智慧を持たないのである。人間の持つべき大切な智慧がない、人生をあるがままに見て、人生のあるがままが立つべき地盤を知らない。所謂、如実智見というものがないのである。これを釈尊の話で顕わすと、諸行無常、諸法無我の道理を知らないということになる。解り易いことが解らないでいるのである。何故、そういう正しい智慧が湧いて来ないか、解り易い道理が解らないかというと、我々が欲に覆われているからである。欲目で物を見るから、物の本当の姿を見ずに、自分に都合よく掛値をして見るのである。このことはもう一度後に申し述べることとなるであろうが、兎に角、欲に覆われて居るから、正しい智慧が湧いて来ない。それと同様にまた、正しい智慧が無いから、欲が正しく生じて来ない。先に云うように、欲は生命の本質であり、生命そのものであるならば、欲そのものが汚れて居るの、悪いものだのと云われる筈がないのであるが、ただ我々の境界にあっては、正しい智慧がない。この正しい智慧のないことを無明と云うのであって、この無明に眼つぶしされて居るから、欲が不当に出て来るために、汚れて居る、悪いと云われるのである。例えば、先に出した飲食欲にせよ、財欲にせよ、また色欲にせよ、そのものが悪いという筈はないのであるが、それが無明のために、正当の度合いになって顕れて来ない。そのために他の排擠となり、争闘となり、嫉妬となって来る。それが間違って居るのであって、これを誡められるのである。

 それであるから、我々人間を、もし智情意の三つに分けて見ると、情意の方面から見て、人間は欲を本質とし、智的に見て、無明に覆われて居るものと云わねばならぬ。この欲と無明と結び付いて、人間の生活が出来て居るのである。この無明と渇愛の関係は、後に再び詳しく説かねばならないと思うが、兎に角、我々の考えること、行なうすべての源がこの無明と渇愛であることは明白なことであると思う。


 それで、無明と渇愛とを本として生ずる我々の生活の中、先ず心の生活について云うと、第一に欲が外物に対して貪りとなる。貪りは、外物が自分の気に入るものである場合に生ずる心の作用である。その外、物が気に入らないと、瞋りとなる。貪りと瞋りとは別の違った作用ではなく、欲が無明に覆われているために、外物の可意、不可意に対して生ずる二方面である。この貪りと瞋りとは、我々の生活の中、情意的方面であるが、無明が我々の心の表面へ顔を出すと、愚痴になる。解り切ったことをくよくよと愚痴るのである。解り切ったことが欲目のために透明に見えないから、愚痴になる。生れた以上、死ぬのが当然である。不養生をすれば病気になる。不養生をせずとも、こういう弱い肉体を持っているのであるから、病むのは避け難いのである。それを自分ばかりが病気にかかり、自分の子供ばかりが、死んだように愚痴るのである。貪瞋痴は渇愛と無明の直接的な顕われであって、この貪瞋痴から、日常百般の種々の心理現象が生ずるから、この貪瞋痴を三不善根と呼んでいる。不善の根という意味である。仏教は人間の問題を取り扱い、いかにせば人間が完全に生きられるかということを中心として考えるのであるから、人間がいかなるものであるかということを最も熱心に研究し、分けて人間の心の状態を究めるのである。それであるから、一方から云うと、仏教の学問は心理学であるということも出来る。心がかくの如く動けば迷う(流転門)、心がかくの如く働けばさとる(還滅門)という特種の立場に立つ心理学なのである。心がかくの如く動けば迷うという流転門の心理が解れば、心がかくの如く動けばさとるという還滅門の心理も、当然解る筈であるから、仏教の心理学は主として、我々の心がいかなる悪魔を妊んでいるか、その悪徳がどんな具合に動くかを究めるのである。この方面の研究は実に微細を極めており、頗る興味のあることであるか、今はこの問題には触れず、貪瞋痴の三不善根から、忿(いかり)、覆(おおいかくす)、慳(やぶさか)、妬(ねたみ)、悩(なやます)、害(がい)、恨(うらみ)、諂(へつらい)、誑(たぶらかし)、驕(おごり)等の色々の悪徳が生ずるものであることを云って置くことに留めよう。


 この悪徳を、心を汚すものという方面から云うて煩悩と云い、事理に惑う所から生ずる意味で惑(わく)と云うのであるが、こういう色々の煩悩が生ずると、それが行為となって顕れる。その行為が業と云われるのである。例えば、自分の好きなものを見て、欲しいと思う。欲しいと思うのは煩悩である。欲しいと思うと取りたくなる。人の見て居ない時に取ってやろうと思う。これも煩悩である。そうして遂に取ろうと決心して、遂にこれを取る。これが業である。

 今ここでは、心のはたらきのうち、悪い方面を出し、従って行為も間違った方面を出したが、心のはたらきも、また行為も、必ずしも悪ばかりでないことは、云うまでもないのであって、美しい、善い心のはたらきもあり、従って美しい善い行為もあるのであるが、今は先に云うように、心がこうなれば迷いとなると云う流転門を云うものであるから、悪い方面を語るのである。それで業について、仏教では意業、口業、身業の三種を分つことは、誰も知っているところである。意業というは、こうしようと心に決断することで、それが口に表われると口業、身体に顕れると身業と云うのである。一つ悪口云うてやろうと決心するのが意業、馬鹿めと悪口云うのが口業である。盗もうと決意するのが意業で、盗むのが身業である。釈尊はこの三種の業をお説きなされて、この中では意業に最も重きを置いて給うのであるが、このことは余程注意を要することである。




(赤沼善智)