< 八 正 道 >




 道というのは、我々凡人の生存を、滅諦(苦にひきずられ、苦に束縛されることがなくなること)という仏の生存まで導いて行く道という意味で、それを修行の道というたのである。それには八正道というて、八つの事柄があるのである。実際修行としては之は実践することは難しいことなのであるが、言って見るのみならば比較的に簡単である。八つに区別して説くから八正道。八道でもよいのであろうが、正しいものに相違ないから特に正しいという字を附けているのである。或いは、正はまさしきという意味に見てもよいのであろう。


 八正道を一々説明するはくどいかも知れぬが、一応説明せねばならぬ。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定をいうのであるが、初めの正見というのは、正しい意見又は学説思想という意味である。見という字を用いていて意見とか見解とかいう意味である。従って、正見は正しい学説、正しい思想ということである。見という字で考という意味を現わすのが普通であり、吾人の見る所によればなどと屡々いわれるが、実は眼で見るのではなくして、心で考えることを指している。つまり、我々の精神的の働きを眼の働きによって代表させるのである。故に、見は考であるが、見の一字を用いる場合、仏教では、邪まな考えを指すこともあるし、又、見といえば、多くは自分自身の考えである。従って、正見は自分の思想学説となった所を指すのであるし、それが邪ではないから正見である。然し、正見はここでは仏の根本的の思想を特に指していうたのであって、仏の根本の思想(つまり縁起の考)を正見といったのである。その正見を知らないのが十二因縁の無明であり、即ち無知である。仏の正見を知らないから、愛に支配せられている凡夫の生存をいつまでもなしているのである。それ故に、先ず修行の最初に少なくとも仏の思想はどういうものであるかと一応の理解だけはしておかなければならぬのである。然し最初から、仏の思想が全部理解し得られたということにはならぬであろうが、それでも兎に角一応知っておく必要があるから、最初にこれを説くのである。今いうた如く、見は自分の意見で、他人の思想を見ということは、必ずしもいわぬことではないが、実際には、それが自分の学説、自分の思想になって時、真の意味の見となるのであるから、仏の根本思想を正見という時には、その根本思想が、自分の根本思想になり終らなければ、見とい詮ひはすのは適当とはいえぬのである。実際仏の思想にならぬから修行をすることになるのであるから、自分の凡てが仏の思想通りに終れば、その人は已に仏になったのである。修行の最後には、仏の思想は必ずそのまま自分の思想になってしまう。それで真の正見ということになる。然らば、修行の最初には、仏の思想が自分の思想になり切ることが出来ないのは勿論、それを理解することも決して容易なことではないから、かかる場合には仏の根本思想を絶対に真であると信ずるのである。見の字を真の意味に解釈することも決して実例のないことではない。仏教と殆ど同時頃印度に興った宗教にジャイナというのがあって、現今でも印度に行なわれているものであるが、その学説を正信、正知、正行の三宝に纏める。この中の正信は原語では正見である。その見を他国語に訳すときに信と訳すのであるから、これ即ち見が信の意味となっているからである。故に、仏教に於いても、正見の見に信の意味が含まれていると見ても差支えないと思われる。然し、このことは仏教者はかつていうたことがないが、今は何等差支えないと考える。若し差支えるというならば、之を実際の場所として考えて、八正道の修行の最初には信がなければならぬといえばよいであろう。一般に最期初の仏教では、信ということを、後の仏教程には、多くは言うていないと思われるが、それは、恐らく、仏陀を眼前に見得る時期には、信は、あまり口にせずともよかったからであろうと思われる。然し、いかに口にせずとも、事実上凡て絶対的の信をもっていたのであるから、後から見れば、信は先ず第一に重要なことであったに相違ないことはいうまでもない。この信によって仏陀の根本思想が一応は自分自身のものとせられるのである。


 次の正思と中ふの思は勿論考えるという意味で、従って正思は正思惟であるから、我々の考えを仏の正通見りに一致させて、従って心に於いて正見を常に思惟していることである。即ち凡ての思考が全く正見と一致する如くになすことで、これは意に関することである。


 心に於いて仏の正見を顕わすと同時に、言葉に於いても、仏の正見に適うようにするのが正語。勿論虚言をなすことはないにしても、一切の原語が仏の正見に適わないならば、正しいことではないから、口に於ける言語が正見通りにならねばならぬとなすのである。故に、これは口に関することである。


 また正見を自身の身体に於ける所作に現わすのが正業である。所作を凡て正見に適うようにし、正見を業に顕わすのである。言葉に於いても行為に於いてもその凡てが仏に正見に適うようにするには、前の正思の意即ち心に関することが根本的のことで、この三で身口意の三業凡てが正見と一致する事を要求する意味になるのである。身口意といえば、それで我々の生活でもその他でも一切を含めているのであり、意に於いて考えるのが根本となって、それが言語に出るか行為に現われるかするのであって、この外には現われ方はなく、従って働く方でいえば、この三以外には何ものもないから、この三で凡てが尽きるのである。身口意の三つをいうことは印度一般のことであって、仏教のみに限るのではない。


 正命の命というのは生活ということである。我々の日常の生活が、仏の正見と一致するようにし、又、一致したような生活をしなければならぬことを正命というのである。故に正命は前の三業を一括していうていると解してもよい。生活の凡てが正見に適うというのはつまり縁起ということを心得ての生活をしなければならぬということになるのであり、自己主張の自利主義を脱して、利他奉仕の行をなすことである。


 次の正精進の精進というのは努力勉強ということである。我々の生活が仏の正見と総て一致するように勉強し努力するというのが正精進である。従って正精進は正命に必然的に結び付いていることである。精進というと、精進料理などの精進を考えるかもしれぬが、それは転用せられた意味で、もとの意味ではないし、精進という字に、さような意味は全くない。それは元来は親の命日などに謹慎し而も精進をなすから、之を精進日などといい、この日には、仏教のいう所に従って、魚肉などを避けるから、自然に、精進日が魚肉などの無い日である為に、精進と魚肉の無いこととが同一の如くになったのみのことである。


 正念の念というのはここでは忘れないということである。常にそれを注意して居って忘れないということが念であるといえる。念は本来は思い起こすということであるから、記憶の憶の字を使うこともあり、憶念ともいうが、思い起こすでは、忘れていたことを予想する道理であるから、むしろ念の字を用いて常念不念の意味を明らかにし、常に仏の根本思想を考えて居て、一瞬の間も、我々のすべてを正見に適わしめることを正念となすのである。


 正定の定というのは、心を静めることである。我々の心が散っていては、真の修行にはならぬのであるから、常に心を静めて、散乱しないようにするのが正定であるといえる。定は詳しく言えば、難しい問題にも触れねばならぬが、正定の定とは、文字は同一でも、ここでは同一ではない。禅定という時は原語はヂャーナで、それを禅と音訳し、訳して定といい、梵漢兼学して禅定というのであるが、正定の定は原語でサマーディで、三昧又は三摩地と音訳する字、通常は、等持と訳され、決して同一の原語ではない。然し、三昧を定とも訳すのである。三昧の貞は禅の定よりも一層深く心が静まり、心が専注、専一になった所をいうのである。三昧によって心を静めて、仏の正見に専念し、仏の正見が自分のものになるに至るのが正定というの意味である。正定が完成することになれば、当然仏の思想が全部自分の思想になってしまうのである。仏の思想が全部自分の思想になり切るということは、つまり愛を全部制することが出来たということになるのであって、専注専念によって愛が制せられ終わるのであるから仏の根本思想が体得せられて、もはや仏の思想たるのみならず、自分自身の思想となり切るのである。それ故に、最後の到達点は愛を制するということになるに外ならぬのである。之によって仏教の修行も完成するのであるから、それが仏になることが出事たというのでなければならぬ。かく心を静めるということが何時でも重要な点であるから、仏教ではさ程心を重んずるのである。


 正定によって正見が実際、自分自身の正見となるというのは一見解せられ難いかも知れぬが、仏教一般に、定、即ち三昧、によって、真の慧が得られるとなすことは、戒定慧の相互関係に於いて説かれるので判るのである。正見は慧に外ならぬから真の慧、真の正見は三昧によって得られるものであければならぬのである。三昧によって煩悩が静まるのであるから、従って、その上に現れる正見はもはや有漏とはなっていないのである。






 以上によって、八正道の趣意を見ると、そこには、何等極端な要素はなく、何等難行的な点もなく、何人にもそのまま行うを得ることのみといえるものである。釈尊はこれを中道と称したといわれるが、全くこれ中道というべきである。苦行や難行に慣れた者から見れば、如何にも物足らぬ程であって、これで果して仏に成るを得るであろうかを疑わしめる点があるであろう。後世、仏教が発達した時期には、この八正道は殆ど捨てられて顧みられることがないが、そのことが今いうことを示しているのであって、後世修行を三界の凡てに関係せしめて、今欲界に於いてすら修行し得られないのに、色界、無色界の修行までをも課せんとするが如きは、全くこれ修行過大症で、健全な教とはいえないものである。凡て八正道の趣意を明らかにしていることが常に必要なことであるといわねばならぬ。


 今少し正定について考えて見よう。我々が日常の業務に従事していれば、常に正定を守って、心を静めていることは殆ど不可能である。然らば一般のものには正定は無意味になるのではないかというかも知れぬが、然し、何人も必ず何時も文字通りの正定をせねばならぬというのではなかろう。心を静めるということは心の持ち方を良くするということにもなるのである。心がけを良くするという心の持ち方を主とするのが、却って重要であると見るべきである。何時も善い心を有っていれば、それが心を静める所以で、特別な方法を取らなくとも、心の持ち方さえよくして居れば、それでもよいということに帰着すると思うのである。心を静めることは心の本性に還ることであるから、心の本性である善心を現わし出すことである。それ故に、何時も善い心を持つようによい心掛けをなしていれば、勿論それに近付いているのであるし、実際上からいっても、心の持ち方は極めて重要なことであって、心の持ち方一つで我々の生活は違って来ることが考えられる。例えば、盗賊の世界は必ず恐怖の世界であろうと想像せられるのであって、一寸人が来ても、自分を捉えに来たのではなかろうかと思うであろうと考えられる。普通の人としては極めて安穏な世界に住んでいても、盗賊にはそれが必ず恐怖の世界であるに相違ないのである。それは全く心の持ち方によるのであるから、盗賊には恐怖の世界として現われ、一般の人々にはそうは現われないのである。盗賊の世界が恐怖の世界であるというのはつまり盗賊自らが恐怖を現出しているに外ならないのである。我々の世界は比較的安楽な世界であるからこの点から考えると、仏の世界は絶対安楽な、総てが善なる世界でなければならぬと考えられるのである。たとえ個人的に悪いものがいても、仏の目で見れば、仏の世界というのは必ず絶対善の世界でなければならぬ。盗賊の世界は恐怖であるというのを、しばらく客観的に眺めて見るがよい。その中には善人も住しているし、恐怖と全く関係のない人も住しているのであるが、それにも拘わらず盗賊にはすべて一様に恐怖であるから、恐怖の世界に住しているのである。それに対して我々の世界は比較的に安楽であるというのも、これ亦我々の心の持ちようがそうであるからに外ならないのであり、



仏の世界は


仏の心が清浄であるから


それに映る世界は全く清浄であるに相違なく


全く善の世界でなければならぬのである。



 心の持ち方一つで、我々でも仏の絶対安楽の世界に入ることが出来るし、我々の心がけ一つによって、仏の世界を現わすことが、出来るのである。それが即ち縁起の世界で、互いに持ちつ持たれつの世界であるから、我々がそこに善なる世界を現わす為に、心の持ち方を善くすることをなしさえすれば、凡てが同じ心のものになることが出来るのである。お互いにかくなして行けば、それが仏の浄土を現わす所以であり、そういう世界が確かに浄土であるのである。それ故に絶対に善なる世界を現わし出すということは決して不可能のことではなく、また決して非常に難しいことではないと思われるのである。仏教で説く所は空想ではなく、我々の心の持ち方が、如何なる世界をもそこに現わし出すことが出来るということである。





(宇井伯寿)