< 伝承 天皇語録 >




「外に別段意見の発現がなければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継けることは無理だと考える。国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保証占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣歿し、或は殉職して非命に斃(たお)れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今でも何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚しかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭(さと)してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。いじょうは私の考えである」(昭和20年8月14日)





< 終戦の詔書 >


朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良(ちゅうりょう)なり爾(なんじ)臣民に告ぐ。

朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

仰々(そもそも)帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、皇祖皇宗の遺範(いはん)にして、朕の拳々措かざる所。曩(さき)に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て、他国の主権を排し、領土を侵すか加きは、固(もと)より朕か志にあらず。然るに交戦已(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘(かかわ)らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢、亦我に利あらず。加之((しかのみならず)敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る、而(しか)も尚交戦を継続せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延(ひい)て人類の文明をも破却すべし。斯(かく)の如くむは、朕何を以てか億兆の赤子を保(ほ)し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。

朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せさるを得ず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に斃(たお)れたる者、及其の遺族に想を致せば、五内(ごない)為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。惟(おも)ふに、今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕善く之を知る。然れども、朕は事運の趨く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かむと欲す。

朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若(も)し夫(そ)れ情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は同胞排擠(はいせい)互に時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うか如きは、朕最も之を戒(いまし)む。宜(よろ)しく挙国一家子孫相伝え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重(にんおも)くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(つよ)くし、誓(ちかっ)て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れさらむことを期すべし。爾臣民、其れ克く朕か意を体せよ。(昭和20年8月15日)





陛下は記者の質問に答えさせられて

「朕は真珠湾攻撃当日の宣戦の詔勅を東条がそれを用いたやうな意味でなる心算(つもり)はなかった」と開戦当時の経緯を述べられ更に戦争を政策の道具に用いることには絶対反対であり日本における社会的変革は憲法上の手続きを履(ふ)んで為し得ることを確信されるとともに「日本においては立憲君主制が確立されることが望ましい」と仰せられた。

陛下は今後の日本について「朕は日本が結局は文化及び文明に対する平和的寄与を通じて各国間における正当な地位を見出すに至るものと思う」と御確信を述べられ最後に将来の世界平和保持に関する御信念を左の如く御披歴遊ばされた。「朕は武力をもってしては恒久的平和は樹立されもしなければ維持もされないと信ずる、この点日本国民は日本を再び諸国との協同関係に導入し、将来の戦争の可能性を除去する能力あることを自ら証明するであろうことを信じて疑わない」(昭和20年9月28日)





ニューヨークタイムス特派員、クルックホーン氏の引見に際し、氏の「最新兵器の出現が将来の戦争をなくすとお考えになりませんか」との質問に対し、

陛下は「銃剣によってまたは他の武器の使用によって永遠の平和が樹立されるとは考えられぬ。勝利者も敗北者も武器を手にしては、平和問題は解決し得ない。真の平和は自由なる人民の協力一致によってのみ達成される」旨お答えになった。(昭和20年9月25日)





「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合軍の援助をお願いしたい」(昭和20年9月27日)





「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」(昭和20年9月27日)





「自分は今度の戦争に関して重大なる責任を感じている。従って絞首刑も覚悟している・・・又皇室財産は司令部の処置に任せる・・・自分の一身はどうなってもよいから、どうか日本国民をこの上苦しめないで貰いたい・・・」(昭和20年9月27日)





「二・二六の時と、終戦の時と、この2回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた。2・26の時は総理大臣が生きているか、死んでいるか分からないので、自分が進んで態度を決めるように指導した。終戦の時は、総理大臣が『どうしようか』と聞くから、『早くやめろ』といった」。(戦後まもなく)





< 人間宣言 >


茲(ここ)に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇の初国是(こくぜ)として五箇条の御誓文を下し給へり。曰く、


一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。

一、上下心を一にして、盛に経綸を行うべし。

一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す。

一、旧来の陋習(ろうしふ)を破り、天地の公道に基くべし。

一、智識を世界に求め、大(おおい)に皇基(こうき)を振起すべし。


叡旨(えいし)公明正大、又何をか加えん。朕は茲に誓を新にして、国連を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達(ちょうたつ)し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。

大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦(かんく)、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、真に心を痛ましむるものあり。然りと雖も、我国民が現在の試練に直面し、且つ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。

夫(そ)れ、家を愛する心と国を愛する心とは、我国に於いて特に熱烈なるを見る。今や実に、此の心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力を効(いた)すべき秋(とき)なり。

惟うに長きに亘れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動(やや)もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪(ちんりん)せんとする傾きあり。詭激(きげき)の風漸(ようや)く長じて、道義の念頗る衰え、為に思想混乱の兆しあるは、洵(まこと)に深憂に堪えず。

然れども朕は、爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし、休戚(きゅうせき)を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且つ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すと架空なる観念に基くものに非ず。

朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、我国民が時艱に決起し、当面の困苦克服の為に、又産業及び文運振興の為に、勇往せんことを希念ず。我国民が其の公民生活に於いて団結し、相寄り相助け、寛容相許すの気風を作興するに於いては、能(よ)り我至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。斯くの如きは、実に我国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑わざるなり。

一年の計は年頭に在り。朕は朕の信頼する国民が、朕と其の心を一にして、自ら誓い、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こいねが)う。

(昭和21年1月1日)





「申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうにかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽した。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。ところで、戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私がやめさせたので終った。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問は一応筋が立っているように見える。如何にも尤もと聞こえる。しかし、それはそうは出来なかった。申すまでもないが、我国は厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されない。だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策をたて、これを規定に遵(したが)って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満ちなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。もしそうせずに、私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持によって何となるか分からないことになり、責任者として国政につき責任をとることが出来なくなる。これは明白に天皇が憲法を破棄するものである。専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことは出来ない」

「だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予(か)ねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは、皇国の滅亡を招くとの見地から、胸のはりさける想いをしつつも、裁断を下した。これで戦争は終った。しかし、この事は、私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている」(昭和21年2月)





「昔、後水尾天皇が病気に罹られた際、典医がお灸で治療するように勧めたところ、側近の者が、神にお灸をすえることは罷りならぬと、これを止めたので天皇は止むなく位を退かれて、お灸の治療をお受けになったそうだ。誠に困った考え方である」(昭和21年春)





天皇陛下に拝謁の際に

「此度の総選挙は昨年末選挙権が拡張されてから最初のもので国連の前途に重大なる影響を及ぼすことであるから、選挙当日有権者は男子も女子も奮って投票所に赴き、自由なる意思を以て選挙に加わるようにしたいものである」との言葉がありました。(昭和21年4月6日)





「朕は国民の総意に基いて基本的人権を尊重し、国民の自由と福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去し、進んで戦争を抛棄して、世界永遠の平和を希求しこれにより国家再建の礎を固めるために、国民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意図し、ここに帝国憲法第七十三条によって、帝国憲法の改正案を帝国会議の議に付する」(昭和21年6月20日)





「朕深く時運に稽(かんが)え干戈(かんか)をおさめ、兵備を撤せんとす。皇祖考の遺訓を念い、汝等軍人多年の忠誠を顧みれば、切々として胸次(きょうじ)を刺す。特に戦いに斃れ、病に死したる幾多の将兵に対しては、ちゅう怛(憂える)に勝(た)えず。

茲に兵を解くに方(あた)り、一糸乱れざる統制の下、整斉(せいせい)迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり。

汝等軍人其れ克く朕が意を体し、忠良なる臣民として各民業に就き、苦に耐え、荊棘を拓き以て、戦後復興に力を致さんことを期せよ」

(昭和21年8月25日)





「本日、日本国憲法を公布せしめた。

この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって、確定されたものである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。

朕は、国民と共に、全力をあげ、相携えて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う」(昭和21年11月4日)





「本日、第一回国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところである。

日本国憲法に明らかであるように、国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である。したがって、わが国今後の発展の基礎は、一に国会の正しい運営に存する。

今や、わが国は、かつてない深刻な経済危機に直面している。この時に当たり、われわれ日本国民が真に一体となって、この危機を克服し、民主主義に基く平和国家・文化国家の建設に成功することを切に望むものである」(昭和22年6月23日)





「われわれはアメリカの友人達と手を携えて協力するということを熱望している。このことをアメリカの友人達に知ってもらいたいと思う。私は戦争を防止出来なかったことを遺憾に思っている」(昭和23年5月20日)





「私は濠州を訪問、日本人の行なった残虐行為を自ら謝罪したいと思っている。濠州人で傷つけられたものが早く全快することを希っている」

(昭和23年7月21日)





退位問題に関するウォータース氏の質問に対して天皇は「問題はデリケートだから意見を述べたくない」と言明を避けられた。なお天皇のキリスト教帰依問題について天皇陛下は「自分は外来宗教に対して敬意を払っている。しかし自分自身の宗教を体していた方がよいと思う」と答え、キリスト教帰依を肯定されなかった。なおウォーター氏は日本人のニューギニア移民に関して質問沙したが、天皇陛下は「それはオーストラリア国民と議会の決定すべき問題である」と述べられ、さらに「日本の人口は将来九千万から一億位になるであろうが、これを四つの島に収容することは困難であり、海外移民ということもいずれは必要となるだろう」との意見を述べられた。(昭和23年8月24日)





ある著名の人から天皇制護持のためにも退位を可とするという内容の著書が差し出された時、陛下は、「個人としてはそうも考えるが公人としての立場がそれを許さない」という意味のことをもらされた。さらに「国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のためつくすことが先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の主旨にそう所以だと思う」と述べられたそうである。(昭和23年12月24日)





「わたしは日本がアメリカとの間に最も緊密にして有効的な関係を固めるために最善を尽くしたいと希望している。さらにわたしはアメリカ占領軍の寛大な態度と日本人民に対する寛容な待遇に深く感謝しており、天皇としての立場からアメリカにおけると同じような民主主義の発展を日本国民の中に育成するため出来るだけの努力をしたいと思う」(昭和23年12月4日)





「本日、第五回国会の開会式において、全国民を代表する諸君と親しく一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところであります。

世界永遠の平和を念願する日本国憲法の理想を心とし、民主主義に基く文化国家建設の目的に向かって、わたくしたちは、着々と歩みを進めています。また、連合軍の好意と援助を受けて、国民が幾多の苦難に屈せず努力を続けて来たために、今日、国民生活もようやく充実するきざしを見せるようになりましたことは、諸君とともに感謝と喜びに堪えないところであります。しかし、わが国が、国際社会において名誉ある地位を占めるためには、わたくしたちの間に、民主主義が正しく理解され運用されるとともに、わが国民経済が完全に自立し、物心両面において、世界的な水準に達しなければならないと思います。

わたくしは、この時に当たって、国会が国権の最高機関として、その最善を尽くすことを、また、国民のすべてが、たがいに協力して、わが国の理想を完全に達成することを、切に望んでやみません」(昭和24年3月19日)





「平和条約は国民待望のうちに、その効力を発し、ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことはまことに喜ばしく、日本国憲法施行五周年の今日、この式典に臨み、一層同慶の念に堪えません。

さきに、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力よって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました。ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に、戦争による無数の犠牲者に対して、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に銘すべきであると信じます。

今や世局は非常の機に臨み、前途もとより多難ではありますが、いたずらに明日を憂うることなく深く人類の禍福と、これに対する現世代の責務とに思いを致し、同心協力、事に当たるならばただに時難を克服するのみならず、新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること期して待つべきであります。すべからく、民主主義の本旨に徹し、国債の信義を守るの覚悟を新たにし、東西の文化を総合して、国本につちかい、殖産通商を振興して、民力を養い、もって邦家の安栄を確保し、世界の協和を招来すべきであると思います。

この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負担の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを恐れるのみであります。こいねがわくば、共に分を尽くし事に勉め、相たずさえて国家再建の志業を大成し、もって永くその慶福を共にせんことを切望してやみません」(昭和27年5月3日)





「雑草という草はないとおっしゃられていますが、その意味は」という問いには、『どうも雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まないのです。雑草とは、道端に雑然と生えている植物をさすのではないかと考えています。米や麦などの生長を妨げるものもありますが、きれいな花が咲いたり、役に立つものもあるので、雑草という名前は、どうもおもしろくないのです』」(昭和59年9月1日)






(昭和天皇)













(平成天皇)




< 伝承 お言葉 >