< 客塵煩悩 >



 人生の苦悩迷乱は、畢竟我々の内容が展開した景観に過ぎない。そうしてこの景観はそれを展開する過程に於いて、業感の世界ということも出来るし、煩悩の書き出したところという事も出来るし、進んで一心の所変ということも出来る訳である。丁度活動写真のように、映写された場面はフィルムの影という事も出来るし、撮影現場に躍った役者達の造り出したものと云う事も出来るし、又映画監督の頭から書き出されたものという事も出来る。一心の所変と云うのは、映画監督の頭から出来たというのに当たり、煩悩の書き出したものというのは撮影場に躍った役者達が造ったというのに当たり、業感の世界というのはフィルムの影というのに当たる訳である。何れにせよ投影された場面は偶然生のものではなく、他から強いられたものでなく、自分の心の煩悩の業の所感であるということは明白な訳である。少なくとも宗教としての仏教は、ここに結ばれて解けない謎の如き人生の秘密を解き、或は解いたものとして、次にここから宗教としての仏教の使命、即ち苦尽解脱の使命を果たそうとするのである。即ち、ここに於いて展開された苦悩迷乱の場面を変化せしめるには、遡ってそのフィルムを焼き棄て、役者を変え、監督の頭を変化せしめねばならぬのである。フィルムと役者と監督とのトリオがその投影された場面の原因であるとはいえ、その最も根本に就いて云えば、監督の頭がその最大の責任者であるから、監督の頭の変化改造が最も重大なる中心点でなければならない。ここに於いて仏教を要約して有名な四句の偈文、即ち七仏通誡の偈と呼ばれるものに於いて


 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教


と示し、浄心が仏教の窮極の実践であるといわれているのは、頗る当を得たものと云わねばならない。それで仏教の実践者は、その究極の実践である浄心に向かって精進する訳であるが、然し亦一面から云えば、撮影現場に於いて躍る役者は、畢竟監督の手足であり、煩悩は浄化せねばならぬ心の内容であるから、監督はその煩悩の改造に心がけると共に、その手足を善きものにさねばならず、ここに於いて、浄心の実践者はその心の内容が何であるか、どういう役者を躍らせているのであるかを調査せねばならないことになる。仏教経典にこの煩悩の種々の記述のあるのは、こうした浄心の用意としての煩悩の調査であり、馘首されねばならぬ役者の技能の調査であるということが出来よう。以下少しくその調査について一言して行かねばならぬ。

 我々は既に十二縁起に於いて、無明と渇愛との二個の煩悩がその支として出されて居るのを見た。而してそれは、十二縁起中の二種の縁起の起点であり、主役であることを見たのである。蓋し此は仏陀が種々なる煩悩中、その最も中心的根本的なものとして認められたことを語るものであって、無明に就いては、四諦の無知、又は不知前後際・内外・業報・三宝・四諦等と註解され、渇愛に就いては三愛又は六愛と解釈されているが、その語の意味するように、本能的にどうしても求めずには居られない欲望のことである。そうすると説明する迄もなく明白であるように、無明とは我々の心の知的な働きの誤謬の根本を指摘したものであり、渇愛とは我々の心の情意的作用の誤謬の根元を突いたものであることは争われない。かくて我々の心の働き全部に亘ってその誤謬が示されているのである。故にこの無明と渇愛とを諸煩悩の根本とすることが出来るであろう。

 経典の中には、いろいろの煩悩群が説いてあるが、煩悩群相互の関係は明瞭にされていない。阿毘曇部派の時代になると全く違った立場から巧みに纏めてあるが、その纏め方を経典のそれに応用する事は不可能である。それ故に煩悩群そのものの相互の関係が不問に附されているので、機会説・随宜説の仏陀の説法の又その後に増加され集録された経典に於いては、ただいろいろの立場から我々の心の働きを眺め、それぞれ修道上の必要からして系統を欠いた羅列をしたものと見るの外ない。このことは又、その経典に示されている種々煩悩群は、仏陀の説法時代から阿含尼柯耶の編纂時代へかけて、幾時代かに亘って説かれ云われたものの集録であるから、一人の系統的な調査から云われたものでないことを考えるならば、一層明瞭にうなずかれることであろう。

 然し、その中でも貪・瞋・痴は最も重要な意味を持つものとして、三毒・三火・三不善根などと云われ、これは前後の関係を明瞭に持っている。即ちこの三者は、痴は無明の等流であり、貪・瞋は我々の欲愛が外境の異なるに対して起こった異相であると説明されている。欲愛が可愛の境に対しては貪欲となり、不可愛の境に対しては瞋となるといわれ、この三者は、先の無明と渇愛が現実の世界へ姿を顕わしたものと考えられている訳である。それ故に、又この三者は次下の一切の煩悩群の根本であると考えられ、この意味で三不善根と云われているのである。尤もこの三不善根の解釈には「業の生起に三つの縁あり」として、この貪・瞋・痴を出し、この三者が悪行の根本とせられている場合もある。而してこの三者については、貪欲は好相に依って起こり、罪過小・遠離遅く、瞋恚は憎相に依って起こり、罪過大・遠離早く、愚痴は不正思惟に依って起こり、罪過大・遠離遅しとしてある。

 以下順序を付することは不可能であるが、経典に顕れている煩悩群の種々を記るして見よう。

 最も普通に示されているものが五蓋又は五障であって、これは心を蓋い障へるから云われるのである。


 一、愛欲  二、瞋恚  三、暗沈睡眠  四、掉挙悪作  五、疑


この五は実は七つあるのであるが、これを五とし、修道に直接の障碍の多いものとして考えられ、それ故に戒を修めて、次にこの五蓋を無くし、かくて禅定に進むという具合に説かれている。


 「比丘は戒律を守り、微小な罪にも恐れを見、学を執持して守り、身口の業を清め、生活の仕方を清浄にし、官能の戸口を守り、正心正念で、世の愛欲を捨て、愛欲を離れ、心を愛欲から清め、瞋恚を捨て、瞋恚を離れ、心を瞋恚から清め、暗眠を捨て、暗眠を離れ、心を暗眠から清め、悼悔を捨て、悼悔を離れ、心を悼悔から清め、疑を捨て、疑を離れ、善法に於ける疑から心を清め、この五蓋のなくなったのを見て喜びを生じ、喜びに依って身体が暢やかになり、身体が暢やかになって、心が静まり、定に入り初禅・二禅・三禅・四禅に進む。」

 次に七使の名目がある。この七使をもととしてその中を開合させて、五利使・五鈍使合して十使とすることも行なわれている。


 七使→欲貪・瞋恚・見(有身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)・疑・慢・有貪・無明


 この七使に似たものが九結であって、これは上の七使から有貪を除き、取と嫉と慳とを加えたものである。

 又、この結を次の十とし、更に二つに分って五下分結、五上分結とする場合も普通に行われている。

 五下分結  一、身見  二、疑  三、戒禁取  四、欲貪  五、瞋

 五上分結  一、色貪  二、無色貪  三、慢  四、掉挙  五、無明


 この分類は、仏教の三界説が客観的に実在するものとして確定した後に出来上がったものであることは申すまでもない。


 四暴流 一、欲暴流 二、有暴流 三、見暴流 四、無明暴流

 四軛、四漏この二者の内容は四暴流に同じものである。


 四取  一、欲取  二、見欲  三、戒禁取  四、我語取


 四繋  一、貪繋  二、瞋繋  三、戒禁取繋  四、是真執繋


 三求  一、欲求  二、有求  三、梵行求


 十六心垢  一、不法欲  二、瞋  三、忿  四、恨  五、覆  六、悩  七、嫉  八、慳  九、諂  十、誑  十一、剛腹  十二、報復心  十三、慢  十四、過慢  十五、驕  十六、放逸


同本、中阿含九三経、水浄梵志経には二十一穢とする。

 一、邪見心穢  二、非法欲心穢  三、悪貪心穢  四、邪法心穢  五、貪心穢  六、恚心穢  七、睡眠心穢  八、調悔心穢  九、疑惑心穢  十、瞋纏心穢  十一、不語結心穢  十二、慳心穢  十三、嫉心穢  十四、欺誑心穢  十五、諛諂心穢  十六、無慙心穢  十七、無愧心穢  十八、慢心穢  十九、大慢心穢  二十、驕傲心穢  二十一、放逸心穢。


 経集や仏伝のあるものは、仏陀の成道時の悪魔として下の十二を挙げているが、これは統べてを煩悩と云うことは出来ない。

 一、欲貪  二、不快  三、飢渇  四、愛着  五、暗眠  六、恐怖  七、疑  八、覆、剛腹  九、名利  十、邪  十一、自讃  十二、毀他


この外散説せられているものを拾い集めると下の如きものがある。


 一、無慚  二、無愧  三、害  四、不信  五、懶惰  六、浮虚  七、懈怠  八、散乱  九、催眠  十、偽善  十一、失念  十二、饒舌。


 これらの煩悩の記述は甚だ雑然としているのであるが、これは前に云った理由に依って、雑然としたままで受けとらねばならないものである。そうして、この煩悩は心を蓋うので蓋、心を障えるので障、心の汚すので煩悩、即ち穢、心を結ぼらすので結、心を生死に縛るので縛、心を流すので暴流、心に付属して離れないので随眠又は使、内部から汚れたものがにぢみ出るので漏等と呼ばれ、その他、刀、荊路、火等の名があるが、又これらの名はそれぞれその名に相応しい一群の諸煩悩を纏めた名としてあるので、これらは煩悩の総名であって、又それぞれの別名であるわけである。そうして、ここに注意すべきことは、先ず第一に煩悩が汚す意味であること、及び蓋・縛・結等の異名がそれぞれみな他動詞的意味を持っていることである。汚し、蓋い、障し、縛し、結ぼらせるものが煩悩であるとすると、その汚され、蓋はれ、障へられ、縛せられ、結ぼらせているものは心であり、心自体は煩悩と別であるということである。いうまでもなく、修道ということは、この予想があって可能なので、この予想がなければ、全く修道の意味は無くなって仕舞うのであるから、煩悩は元来、心の王城の中に当然居を占むべからざるものと予め決定されていたことである。それ故に、やがてこのことが明かに意識されるようになってから、煩悩はここに客塵と呼ばれるようになってのである。客塵を一歩進めれば無体であり、大乗はみなこの妄法無体に立脚するものであることは云うまでもない。浄土教は更に実際に立脚して、無体と云い客塵と云うも、自ら如何んともすることの出来ない現実を問題とするものである。



(赤沼智善)






<煩悩の本質>



 罪の意識は洋の東西を問わず人間の精神史的展開に深い契機となって底に沈んでいる。

 西洋に於けるキリスト教的罪の意識もまた時代によって解釈の相違がみられるようである。アダム・イヴの説話によって象徴せられる原罪もその一つである。初期に於いて、原罪は必ずしも罪といえないであろう。神の掟に背くか或は精霊を悲しませるかという前提があって、ここに罪の意識が生起する。然るに、あたかも嬰児に於いては・・・それは原罪といわれるかも知れないが・・・厳密な意味で原罪ということは出来ない。神の掟に対して無知である段階にあって、これを罪ということは出来まい。原罪は、好むと好まざるとにかかわらず、人類に押しかかって来ているものであって、嬰児には人間の意志が働いていない。意志の働かないところに罪を帰せるわけにはいかないであろう。かくて、原罪そのものはキリスト教に於いても宗教的罪意識とかかわりないと考えられるようになった。

 キリスト教によれば、罪ある行為の可能性は意志であると言われる。意志から欲望が生じ、意欲が生じ、罪ある行為が生ずる。その際、キリスト教は神の掟を越えるかどうかを罪の意識の基準とする。即ち、罪意識の基準は外なる神であり外なる神の掟である。


 仏教に於いても、初期仏教教団にかかる客体的基準を設けた時代があった。律に於いて教団を結合していた場合の如きである。罪はvipattiであり、教団の規定、宗教的実践を越えた場合に罪といわれていた。かかる罪は悔い改めて基準に従えば消滅する。キリスト教に於ける罪も原始仏教教団における罪も、それが主体的でなく客観的であるという点に於いて決して著しく異なっているものとは言えない。

 また、キリスト教に於いては神とそれによって定められた掟が厳然とした聖なる実在として許されている。これに相対するものは個人よりもむしろ広く人類であった。従って、罪は個人の罪悪意識という主体性よりは、人類のひとしくうける罪という意識が強い。アダム・イヴそのものが人類の祖先であった。出発点に於いて既に個を離れたアダム・イヴがあった。

 仏教は神の存在を否定し、神による掟を恐れない。出発点は個人に襲いかかるところの具体的事実・・・生・老・病・死・・・であった。仏教は出発点に於いて既に個的であり実存的であり、主体的であったということが出来る。

 このように考えることが出来るとすれば、キリスト教に於ける罪意識は人類が神に対するそれである。それ故に、罪意識は内面的心理的分析を仏教の如くに与えられていない。神に対する人類の罪意識というが、それが個々の人間存在の心理の上に・・・個人がそれぞれ相違しているように・・・どのような相違した表われ方で受けとられているかということについて、その心理学的分析が詳論されることなしに終っている。然し、もし我々は罪意識を抽象的人類の罪意識でなくして、主体的な自らの罪意識として受けとり、且つ、自覚するならば、それが自らの内で内面的に他の心理的要素と如何なる関係を持ち、又、如何なる影響を与えているかということが反省せられねばならない。仏教に於いて、罪意識に代わるものはもはや客観的基準の違反という抽象的なものではない。主体的なもの・・・対象を外におくものでなく・・・でなければならない。煩悩とはまさにこれである。煩悩の意識は神の掟に違反したことの罪意識ではない。煩悩の自覚は自らを・・・神ではなく・・・自らの内で対象とするものである。自己にその位置を占めた煩悩はその解決を自らの内で自らの手で成し遂げなければならないであろう。他の手を借りない以上、自分を苦しめている煩悩が一体、何ものであるかを分析することになるであろう。克服するためには克服されるものを分析し且つ、理解してかからねばならない。かかる心理的自己反省的過程からして、仏教に於ける詳細を極めるところの煩悩の分析が体系化せられたのであると考える。他のいかなる宗教に於いても、仏教ほどに煩悩の心理的分析を体系化した宗教はないであろう。

 西洋に於ける宗教的精神史はギリシャ以来、高慢・肉欲と霊との戦いであったといわれる。ところが、たとえ人間的高慢が神の領域を犯し或は神の掟にそむいたところにあるとしても、その高慢は、人類の神に対するものであって、主体的自己内のものではない。もし主体的なもの内観的なものであったとすれば、この高慢は心理的諸要素の一つとしてしかとらえられないであろう。仏教は高慢を心理学的要素の一つに過ぎないと考える。心理的に言えば、高慢は九種及至十種もある慢の一つに過ぎないであろう。増上慢或は我の存在を主張する我慢といわれるものに過ぎないと言ってよかろう。肉欲にしても心理的に言えば三毒の一つたる貪に外ならない。西洋に於ける高慢・肉欲等が心理的内面的考察を得ずして抽象化せられているといったのはこのためである。

 高慢は人間の限界を神の世界にまで拡げようとして人間を高めた。これは西洋ではルネッサンスに於けるヒューマニズムにまで開花したと思われる。キリスト教は神の存在・聖なる掟に関する神学に集中し、高慢を批判しはするが、高慢の人間にとっての必然性・本具性を分析してはいない。ここに人間的世界と神学との対立争闘の起こる理由があると思う。高慢を人間に心理的側面から分析するならば、それは人間性の本質を示す要素でこそあれ、隠蔽すべきものではない筈であろう。それを心理的一要因とみなし心理的問題に移行せしむることは、神学の領域ではなかった。神学はただ神に関する学にとどまったのではなかったか。

 仏教は更に、この問題を神学或は宗教の領域にとじ込めはしなかった。今の問題でいえば、高慢は神に対するものではなくして、人間的主体内の問題、換言すれば、心理学的領域にまで深められて来た。そこで問われるものは神の存在ではなくして自己の存在であった。端的に言えば、高慢の根拠は何であるかという問である。その根拠は神に背いているからという神学的解答によっては与えられない。そうではなく、仏教は高慢を一旦、人間心理の領域に於いてとらえ、更に、それを人間的存在の存在論的構造にまで掘り下げていった。即ち、高慢の根拠は人間存在を不変なる主体としてとらえているところの実的な考え方そのものにあるとするのである。自らを不変常住なものと想定することは決して・・・科学的にも仏教的にも…正しい認識ではない。人間存在も他の諸存在と同じく、常に変易して止まることなき存在である。即ち、それらは常に動的作用的存在である。存在論的に言うならば、存在のかかる構造に対する認識の欠如を無明というのである。これが煩悩を生起せしめる根本原因である。また、倫理的に言うならば、仏教では善・悪の絶対的規範が否定せられているから、絶対的善も絶対的悪も存しないと考えられている。善悪は相対的なものである。人間は善と悪の世界に於いて存在しているのであって、善又は、悪の世界に於いてではない。存在論的にも倫理的にも絶対的なるものという想定は否定せられる。この事実を知らないことが無明であり、罪とせられる。仏教に於ける煩悩の自覚は知的であると共に主体的であるといわねばならない。

 かくの如き知的構造を持てる主体的自覚は他社的な存在を予料する西洋の罪の概念とは基盤に於いて根本的に相違している。言語の上即ち、漢訳の上では「罪」なる語に相当する梵語或はパーリ語は種々ある。そのいずれを取ってみても、その根本的基盤は凡て人間存在を常住なりと固執するところの無知にある。

 次に、漢訳で「罪」と訳される原語をあげるが、これらの原語は、以上で述べた思想形態からして、三種の群に分けることも可能であろう。第一群とみなしてよいと思うものはvipatti(違反)aparadha(犯罪)duskrta(悪行)agha(邪行)enas(禍)pataka(犯行)等であり、これは規範を犯す行為に名づけられる。それ故に、比丘の前で告白するか或は師の前で悔い改めればよい。外的規範によるものである。古代インドの罪・初期キリスト教の罪・初期仏教教団における罪・その他原始宗教に見られるタブーの違犯などはこの段階であろう。第二の群はpapa(悪)dosa(失敗)papakarma(悪行)durita(不幸)agas(越権)等であり、これは善と悪との倫理的次元で考えられるものである。単なる規則違反のように改めれば終るという表面的なことを更に、一歩深め善悪に対する倫理的反省・人間性を越えて神の世界に越権するという行為である。キリスト教思想におけるところの神に対する人間の高慢のごときは人間性の越権であるが、それは心理的に言えば、単にagasの段階にある考えに過ぎない。神の存在を許容する限り、この領域に止まるであろう。最後に、第三の群としてavidya(無明)samsara(輪廻)klesa(煩悩)karma(業)等がある。これらの原語そのものは古代インド思想にも極めてまれにしか現れないか、或は、全く出ていない概念であるが、仏教になれば、極めて多く出る許りか、その心理分析・中心的位置を占めるようになる。このことからしても第三の群に仏教的罪思想の特色が見られねばならない。第一・第二群の思想は仏教に於いても勿論、出てくる。しかし、他の思想形態の上にも見られるから、仏教の特色ということは必ずしも言えない。然るに第三群の諸概念は仏教に於いて発展していくものであるのみならず、その根底に一貫している仏教的思想をみとることが出来る。

 では、その根本的思想とは何か。仏教の罪の意識は神の如き客体的存在に対する意識ではないことは既述の如くである。自己の”うちに”求めて行く。この態度が業を罪と考える考え方になって来た。業思想を重要視するに至る所以である。更に又、自己の存在もまた、神の存在と同じく否定さるべきものであるにもかかわらず、その認識に反して常住不変なるものと考える誤謬が我々に附着している。即ち、正しい認識の欠如、知の欠如があり、これが無明であって、漢訳で「罪」をあてるのである。かかる知的欠如は心に随従し、心を汚す働きを持っているから心理的側面から、この知的認識の欠如(無明)を汚れたもの(klista)という感覚的表現で現わすこともある。それが煩悩(klesa)である。煩悩は単なる感覚的なものではなく、知的欠如(無明)を根本原因として心に現れてきた相である。更に、知的認識の欠如が人生そのものに全体的にあてはめられると輪廻になる。無明が知的認識の欠如として知的意味を持つ本質となるならば、輪廻はそれを根拠にして現象面に現れた相である。輪廻即ち人生は知的認識の欠如と共に感覚的次元を現わした概念であるということが出来よう。

 以上がアビダルマに至るまでの仏教的罪意識の種々相である。大乗仏教になれば、更に、視点が変えられ、以上の如き罪の平面的分析(煩悩の分析観)から立体的態度に転換せしめられる。即ち、平面的に知的認識の欠如から生じた輪廻(生死)の世界であったものが、立体的に涅槃と即一的なものとせられ、輪廻即涅槃という大乗的概念が生ずるに至った。これを以てみても解るように、西洋に於いて神性に相対する人間の高慢として否定せられたその思想は、仏教にあっては却って、人間にとって本質的なものとして肯定せられた。罪或は煩悩はもはや、外的ないかなる神の力によっても除かるべきものではなく、除くものはかえって、自己自身であり、また除かるべきものも自己自身であるという限界状況につきつめられて行くのである。そうすれば、そこに残る唯一の道は煩悩そのものを転廻せしめる以外にないであろう。救済者を他者に求めるキリスト教的救済ではなくして、そこにあるべき道は自己が自己に於いて転廻する以外にない。煩悩即涅槃は救済ではなくして、自らが自らの手によって煩悩を涅槃に転廻せしめることである。これがまさに人間に残された覚証であるのである。



(佐々木現順)






<煩悩即菩提>



 仏教の目的は、煩悩を断じて菩提の智慧をうるところにある。煩悩は、貪欲・瞋恚・愚痴の如き人間の本能的な心の作用であって、断じがたいところのものであるが、これらによって、人間は精神的にも肉体的にも、煩わされ、悩まされる。われわれの人生は、貪欲や瞋恚や煩悩によって、波立ち、惑乱され、傷つけられる。貪欲は人生を浅ましくし、瞋恚は人生を冷たくし、愚痴は人生をくらくする、したがって、煩悩は、仏教において、人間を傷つける毒であり、罪であり、悪であり悪魔であるとされる。仏陀の成道をさまたげた衆多の悪魔の軍とは、まさに、この煩悩のことであろう。このような煩悩の悪魔を断じて平安な菩提の智慧の獲得をめざすのが、仏教である。しかし、煩悩を断ずるといっても、それは、菩提の智慧を獲得することによって、真実に果される。むろん、智慧とともに、戒律や禅定の実践も煩悩を断ずるための必須の条件である。悪徳をいましめる戒を遵守し、雑念をはらい精神の安定をあかる禅定を実践するところに、煩悩が制御され、静められ、断ぜられ、放棄されていく。しかし、菩提の智慧の獲得こそ、煩悩を断ずるための本質的な契機である。

 仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印という。仏教の理法の三つの旗じるしという意味である。「諸行無常」とは、一切の存在が諸の因縁の合することによって形成されたものであり、したがって、因縁が散ずれば、変化し、刹那といえども同じ状態にとどまらない、壊滅を性格とする。永続性のない存在である、ということである。そして、一切の存在が無常であるということになれば、一切の存在は我として、また、我の所有として、把捉すべからざるものである、ということになる。これが、「諸行無常」の理法である。ところが、世人は諸行無常、諸法無常の理法に無自覚であり、存在の常住な永続性を思考し、あるいは、自我や自我の所有に固執し執着する。ここに、貪欲・瞋恚・愚痴などの多くの煩悩が生ずる。したがって、煩悩は、無常無我の理法にたいする無自覚より生ずるものであり、無常無我の理法が真実に認識されるならば、断ぜられるところのものである。このような真実の認識がえられるならば、存在の常住性にたいする欲求や、自我や自我の所有にたいする執着は起こらない。このような認識をえた人は、離欲の人であり、煩悩の束縛より離脱した人である。菩提の智慧とは、このような認識にほかならない。菩提とは、悟り、了解の意味であり、無常無我の理法にたいする自覚といってよい。そして、「涅槃寂静」とは、このような菩提の智慧によって獲得される、煩悩を断じた寂静の境地のことをいう。

 初期の仏教によると、煩悩を断じた涅槃寂静の境地を実現した修行者は、「アラカン」と呼ばれる。「アラカン」が「応供」といわれるとともに「殺賊」といわれるのは、アラカンが煩悩の火を吹き消した涅槃の完成者であるからである。しかし、たとえ、修行者が煩悩を断じてアラカンとなっても、肉体は存在しつづけるわけであるが、肉体が存在しつづけるかぎり、はたして、煩悩が断ぜられるのであろうか。睡眠欲・食欲・性欲の如き本能を人間よりとりさることが可能であろうか。しかし、どこまでもあらゆる本能・煩悩を断じつくすのが、アラカンの聖者の涅槃である。ただ、初期の仏教によると、煩悩を断じた涅槃に、有余依涅槃と無余依涅槃とが区別される。有余依涅槃とは、煩悩は断じたが残余の依身である肉体が有る涅槃のことであり、無余依涅槃とは、煩悩とともに肉体もまた空無に帰した灰身滅智の涅槃のことをいう、灰身滅智とは、涅槃を悟って肉身も心(智)も灰に帰した死滅の状態をさす。ウダーナ第八品に出る「身は壊れ、想は滅び、受もまたすべて焼け失せたり。諸行は止息せり、意識は滅尽に達したり」という偈頌は、このような無余依涅槃の状態を語るものであろう。そして、このような無余依涅槃が、すくなくとも、アビダルマ仏教では、究極の理想とされている。涅槃に有余依、無余依の二種類が区別されるのは、仏教のたてまえが、自我の見解を滅尽し煩悩を断ずるという、人間性の超克にあるからであろう。自我の見解を滅し煩悩を断じようとするかぎり、最後には、死滅の状態をえらばねばならなくなってくる。アビダルマ仏教は、一切の存在が諸の因縁の合することによって形成された質量的な要素(法)のみ見て、自我(人)の見解の滅却をはかろうとする「人無我法有」の立場にたつが、かような立場にたつかぎり、すべてが生命なき諸要素に解消し分離した死滅の状態が、理想とすべき目標になってくる。無余依涅槃は、仏教の縁起・・・無我の思想から必然的に考えられるところのものであり、初期仏教、すくなくとも、アビダルマ仏教といわれるところのものは、このような無余依涅槃を理想とするアラカン道であった、といってよい。かくして、アビダルマ仏教では、人間のもつ煩悩を詳細に分類し、これらの煩悩を断ずる断道の教義が発達する。これは、人間心理の研究に貢献するところ、まことに多大なるものがあったといってよい。

 しかし、煩悩の詳細な分類をおこない、無余依涅槃の理想を示すのが、はたして、仏陀の真意であったであろうか。

すくなくとも無余依涅槃は、大乗仏教から見れば、完全な佛教思想とは考えられていない。また、煩悩にたいしても、大乗仏教は、さらに深い反省と自覚を示している。以下、これらの点を究明し、大乗仏教における煩悩と菩提との関係をさぐってみたい。

 大乗の唯識思想によると、人間心理の深層にたいする考察が詳細におこなわれ、煩悩の心の内奥に深い反省と自覚がむけられている。唯識の学説では、アビダルマ仏教に見られる人間心理の分析を継承しつつ、すすんで、アーラヤ識という潜在的な深層の意識の下に心理の総合をおこない、人間の心理によって人生全般を説明する特色ある仏教唯心論を確立する。この点は、同じく人間心理の分析をおこないつつ、諸法の実在を主張したアビダルマの学説と全く異なっている。人間の心理の一部をなす「煩悩」について考察してみても、貪・瞋・痴・慢・疑・見の六つの煩悩と、忿・恨などの二十四種類の随煩悩とは、分類や数において多少の相違があるにせよ、だいたい、アビダルマの学説よりの継承と考えられるのであるが、唯識の学説によると、これらの煩悩は、日常の表面心である六識に相応する心理にすぎない。唯識の学説によれば、日常の表面心をうみだす潜在的な深層の領域において、まず、アーラヤ識があって、このアーラヤ識があらゆる煩悩を発現する種子をたくわえる、と考えられている。アーラヤ識は、煩悩のみならず、あらゆるものをうみいだす根源であり、非善非悪的な存在であって、それみずから煩悩的存在ではないが、あらゆる煩悩の種子の貯蔵所となって、現実の煩悩の生活の展開の因となるのである。唯識の学説によると、煩悩の生活の最初の営みはマナスと呼ばれる。しかし、このマナスは、意識の底面に潜在的に無意識的にはたらく心理であって、いまだ、意識の表面に現勢的にあらわれるものではない。人間の心底にひそむ如何ともしがたい執拗な煩悩のはたらき、たとえば、われわれが熟睡しているときにでも、気絶しているときにでも、恒に不断に存在する如き煩悩の心理、これがマナスである。唯識の学説によると、このマナスは「我痴」「我見」「我慢」「我愛」の四つの煩悩とともにおこる、と考えられている。「我痴」は自我が真実には無我であるという真理に迷う煩悩であり、「我見」は自己や自己の所有に執着する煩悩であり、「我慢」は自我の高ぶりの煩悩であり、「我愛」は自己にたいする愛着の煩悩である。したがって、これらの四煩悩は、一言でいえば、人間の我執のはたらきということができる。かような我執のはたらきが人間の心理の深層に存在し、そこから現実のさまざまの煩悩が生起する、というのが、唯識の学説の煩悩論の特色である。唯識の学説が貪欲・瞋恚・愚痴などのさまざまの煩悩の発生の種子をアーラヤ識にみとめ、その深層のはたらきをマナスにみとめたことは、人間の煩悩がいかに抜き難い、根深い執拗なものであるかについての深い反省と自覚の結果であったというべきであり、仏教の煩悩論の大きな発展であったということができる。人間の煩悩にたいする反省と自覚とは、むろん、アビダルマ仏教において、表面位の煩悩である纏(起)と潜在位の煩悩である随眠との区別が論議されているところにも、いちおう見出すことができる。しかし、唯識の学説は、この反省と自覚とをアーラヤ・マナスの心識の学説によって体系化したのである。

 人間の煩悩にたいする深い反省と自覚とは、大乗仏教では、古くは、勝慢経の教説の中に見出される。勝慢経によると纏と四つの住地との二種類の煩悩が区別され、四つの住地の煩悩によってもろもろの纏の煩悩が生起する、とされている。住地とは、他の諸の煩悩の起こるよりどころとなり(住)、因となる(地)、という意味である。しかも、勝慢経によると、四つの住地の煩悩よりさらに強力な煩悩として、無明住地の煩悩が存在する、とされる。無明こそ煩悩の最深の根源とされるのである。纏の煩悩と住地の煩悩との区別は、また、入楞伽の上にも見出される。ただし、入楞伽経によると、勝慢経に見られる無明住地が、”無明の習気の地”となっており、四種の住地が”四種の習気の地”となっていて、”住”が”習気”として用いられている。すなわち、入楞伽経では、「纏の煩悩」と「住地の煩悩」は「纏の煩悩」と「習気の煩悩」というかたちで見出され、この二つの煩悩の区別が次のように語られている。『かれら(声聞乗を悟る種姓のもの)は、声聞乗の悟りを知見しおわり、第五・第六の地において纏の煩悩をすて、習気の煩悩をすてずに、不可思議の死に達したとおもい、<我が生は尽きた。梵行は立った。>と正獅子吼をさけび、語りおわって、人無我の習熟、乃至、涅槃の想いがある。』『かれら(愚痴の声聞)は、纏の煩悩をはなれるけれども、習気の煩悩に束縛せられ、三昧の酒に酔い、無漏界に安住する』。この入楞伽経の教説は、人間の煩悩の根底に、小乗声聞の人々に知られない、抜き難い習気の煩悩が存在することを発見した大乗の人々の、深い反省と自覚とを語るものであろう。小乗声聞の人々は、煩悩を断じて不可思議なる死に達した涅槃をえたと想うているが、しかし、実は、表面の現象的な纏の煩悩を断じて三昧の酒に酔うているにすぎない。その心底においては、いまだ、習気の煩悩が断ぜられていないのである。だから、入楞伽経は、『声聞は内なるアーラヤ識における自己の習気の煩悩を清め、法無我を見ることによって、禅定の安楽に住することをえて、ジナの身をうるであろう』と説いている。人無我を知見しても、法にたいする束縛があるかぎり、完全な涅槃とはいえない。アーラヤの心底にひそむ根源的な習気(住地)の煩悩を清め、徹底した法無我の知見をうるところに、涅槃が完成される。入楞伽経によると、『無明住地より生ずる七つの識』といわれており、現実の七転識の流転の世界は、無明の習気(住地)より生ずるのであって、無明(煩悩)の断は、まさに、その習の断でなければならない。このように大乗仏教は煩悩の根源を追求し深層にせまり、そこに断惑の道理を語るのであって、ここに、われわれは、人間の煩悩的存在を凝視した大乗仏教の深い反省を自覚とを見なければならない。




 しかし、大乗仏教の煩悩論の根本的な特色は、煩悩即菩提の思想を語るところにある。大乗仏教は、人間の煩悩を習気という根源の姿においてとらえるとともに、この煩悩こそ菩提が実証されるべき場所であるとするのである。仏教は煩悩を断ずる道であり、煩悩の火を吹き消した涅槃を求める道であって、この意味からいえば、煩悩は排除されるべきものである。煩悩は毒であり悪であり罪であり過失であり賊であって、滅ぼされるべきものである。かくして、仏教は煩悩を滅ぼした灰身滅智の無余依涅槃を究極の菩提の理想とし目標とするようになる。さきに述べたように、仏教の伝統において、この無余依涅槃は、特にアビダルマ仏教の涅槃観の特色をなすものであった、と考えられる。しかし、大乗仏教は、生死の世界の外に涅槃の世界を求めず、煩悩の外に菩提を考えない。




 煩悩の氷とけて菩提の水となる、という如く、煩悩を捨てた外に菩提が相対的に存在するのではなく、煩悩の中に空性の真実が悟られること、これが菩提である。菩提は煩悩の中に反省され実証されるべきものであり、煩悩は菩提の実現のための場所でなければならない。このような煩悩即菩提の思想は大乗仏教の大きな理念であったといってよい。




 「迦葉よ、空性の了得によって空性に向かう人々を、わたくしは、この中道の教説より離脱したものと語る。迦葉よ、須弥山ほどの我見に住すとも、無に執着する空性の見解たらざれ」

 「世尊よ、先に貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩の存在を認めて、後に、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩の存在なしという人は破壊者である・・・むしろ、須弥山ほどの我見を起こすとも、無を有りとする増上慢の人の空性の見解たらざれ」




 真実の宴坐というべきものは、煩悩の生活の中に実践されるべきものであり、煩悩の生活と無関係に存在するのではない。




 真実の解脱の境地は、世俗の煩悩の世界の中に反省され実証されるものでなければならない。




 菩提は汚濁の世界を超越した清浄の世界にあるのではない。




 汚濁の泥沼に清浄の蓮華が咲く如く、煩悩こそ如来たりうる種姓なのである。




 小乗の声聞は、煩悩の世界を否定した外に菩提の世界を求め、汚濁の生活を捨てて清浄な寂静の悟りの境地を求めた。有余依涅槃を求め、究極には無余依涅槃の死を理想とした。これは、禁欲主義的な僧院の仏教というべきものであろう。しかし、人間の現実生活より遊離した菩提は、菩提の抽象的な形骸である。菩提は人間の煩悩の在俗生活の中に反省されるところに生きた意義をもつ。小乗の声聞は菩提、涅槃の実践的意義を見忘れているといってよい。菩提は僧院の出家仏教の中にあるのではなく、世俗の在家仏教の中にある。




 かくして、仏教は、在家生活における煩悩即菩提の実践というかたちになってくる。維摩経の「方便品」に維摩の人物を述べて、「白衣たりと雖も沙門清浄の律行を奉持し、居家に処すと雖も三界に著せず、妻子あるを示せども常に梵行を修し、眷属あるを現ずれども常に遠離を楽む、・・・俗利を獲と雖も以て喜悦せず、諸の四衢に遊んで衆生を饒益し、治生の法に入って一切を救護す・・・」といっているがこれである。仏教において、在家仏教、あるいは居士仏教といわれるものが発達するのは、かような維摩経の思想に負うところが多いようである。




 インド・中国・日本の仏教の過去をふりかえるとき、仏教は煩悩即菩提の大乗菩薩行の理想をかかげつつ、現実においては、現世を超越する出家仏教の道を歩んだのではないか。仏教は中国に伝わって以来、たえず儒教から、人倫を破り社会秩序を破って自己の解脱に逃避する宗教として、はげしく非難されている。たとえば、北宋の程伊川によると「父を逃れて出家し、人倫を断ちて白衣にて山林に独処する人は、郷里、あに此物あるを容れん」という、はげしい非難があびせられている。また、日本においても、徳川初期の林羅山によると、「浄屠氏は畢竟、山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄となし、遂に義理を滅絶す」と非難されている。煩悩即菩提の大乗菩薩行の理想をかかげるかぎり、仏教はこのような現世否定的な非社会的な態度におちいるべきではないのであるが、事実上、仏教は現世を超越した静寂の境地に菩提を求める声聞の仏教に転落していったのであろう。

 しかし、静寂の境地に菩提を求めることすら、果して可能であろうか。煩悩の生活の中に菩提を実証するにせよ、静寂の境地に菩提を求めるにせよ、いずれにしても、煩悩の否定を契機としなければならないが、「定水をこらすといえども、識浪しきりにうごき、心月を観ずといえども、妄雲なをおほふ」のであって、煩悩の否定は人間にとって容易なことではない。むしろ、不可能というべきであろう。徳川末期の国学者である平田篤胤は、煩悩の否定が不可能であるという立場から、はげしく仏教を非難している。「人に愛情を棄てろの、無心になれの、うぶなままになれの、愛憎という好き嫌いを止めよのと、仏の口真似して、誠の人にはとんと出来ぬことをすすめるが、其れはならぬころじゃ」、「妻子の愛情をすてられるものか。棄てられぬのが誠のことで、人の道じゃ」、「此の空教は、ただ口に言ふべくして、衆生は更なり、仏祖も比丘らも、行い得ざりし法になむ」。儒教が仏教を人倫を破る非社会的な宗教であるとするのにたいし、平田篤胤は仏教を非人間的な無理な宗教であるとみなしているといってよい。いずれも仏教にたいするはげしい非難であるが、平田篤胤の非難には、仏教を根本的に不可能な、したがって、仏教を欺瞞の宗教とする悪意すらみられる。

 しかし、煩悩が人間にとって断ずることの不可能なものであるにせよ。煩悩のままに生きるのみでは、人間は野獣と異ならない。煩悩の生活を反省し、自我的な行動をつつしむところに、倫理性があり、むしろ、そこに人間性があるというべきである。しかし、だからといって、煩悩の生活と関係のない静寂の境地に菩提を求めよというのではない。静寂の境地に菩提を求めるのは、小乗声聞の出家仏教というべきものであり、人生よりの逃避であり、死につながる非社会的な態度である。人間の真実の生き方は、在俗の煩悩の生活の中にただちに菩提を反省し実証しようとするところになければならない。煩悩即菩提の大乗菩薩行とは、このような人間の生き方であり、ここに、仏教が真に現実に生きる意味がある。もとより、このような大乗菩薩行の実践は、人間にとって、まことに至難であろう。これは、儒教の側よりの仏教批判に見られるように、静寂の境地に菩提を求める小乗声聞の出家主義にも、おちいりやすい。しかし、煩悩即菩提の大乗菩薩行の実践なくして、仏教の菩提が、真実に現実に生きる意味はなく、人間が、真実に現実に生きる意味はない。このように考えると、大乗菩薩行の実践は、たとえ至難であるにせよ、人間の歩むべき真実の道としてうけとるべきであり、菩提は、人間の煩悩の生活の中に反省され実証されるべき真実として、仰がれるべきである、ということになる。大乗菩薩行の実践は人間の理想の道であり、菩提は人間の煩悩の生活を覚醒せしめんとする救済の真実である、といってよい。




 「菩薩は、もろもろの衆生を養育するかぎりにおいて、仏国土を摂取する。もろもろの衆生を調伏するような、仏国土を摂取する。もろもろの衆生が仏国土にはいることにより、仏の智慧にはいるような、仏国土を摂取する。もろもろの衆生が仏国土にはいることにより、聖者の如き感覚器官を生ずるような、仏国土を摂取する。これは、何故かといえば、善男子よ、もろもろの菩薩の仏国土は、衆生の利益より生ずるからである」


 「直心の国土は、菩薩の仏国土である。菩薩が菩提を得る仏国土には、不誑不諂の直心の衆生が生まれるであろう。深心の仏国土は、菩薩が菩提を得る仏国土には、あらゆる善根と資量とを集めた深心の衆生が生まれるであろう。・・・」


 「譬えば、薬有り。名けて上味と曰う。其を服すること有らば、身の諸毒が滅して、然る後に乃ち消するが如く、此の飯も是の如し。一切の諸の煩悩の毒を除滅して、然る後に乃ち消す」




 大乗の人々は、人間の煩悩の心の根源をみつめ、そこに抜き難い習気の煩悩が存在することを自覚した。これは、救い難い汚濁の人間の発見であったといってよい。しかし、大乗の人々は、仏陀の説いた菩提の真実は、かかる汚濁の人間にこそ実証されなければならないという信念に生きた。仏教は専門の僧侶の独占物でなく、煩悩にまみれた在俗の人間に開かれる普遍的な真実でなければならない。閉鎖的な僧院の出家仏教は、仏教の真実を正しくうけとめるものではない。仏教の真実は煩悩の生活の中に生きるのであり、煩悩こそ仏種というべきである。このような大乗の人々の信念は、煩悩即菩提の実践を語り、煩悩の世界を照らす菩提の世界(仏国土)の救済の悲願を語ることになるのであろう。ここに、大乗仏教の実践と宗教とを見ることができると思う。大乗仏教は、在俗の濁悪の生活の中に仏教を語る在家主義の信念に貫かれた仏教であり、その宗教性は親鸞の悪人正機説を思わしめるものがあるというのは、いいすぎであろうか。「罪障功徳の体となる こほりとみずのごとくにて こほりおほきにみずおほし さわりおほきに徳おほし」とうたった親鸞の信境は、また、大乗の人々の信境であったのであろう。




(安井広済)