< 自 在 天 >




自在天と名くる神がこの世界のすべてを作ったとするならば、


彼は全能自在なるがゆへに、若きも老いたるもその区別がない。


前も後もなく、天国、人間、動物、地獄、餓鬼の如き五種類の誕生もない。


又生起したものにも死滅が後を追わない。


またいかなる不幸も心配もない。


悪事を犯しても又何の罪になることもなく、浄き行為も、いまわしい振舞いもない。


何故なれば、これらの善悪はすべて自在天の意図から出ているからである。





若し自在天がこの世界のすべてを創造したとするならば、


この世界に何の疑惑があろうか。


恰も、一人の子が自分を産んでくれた所の


自分の父を常に認識し、父に対して畏敬の念を怠らぬように、


この創造者たる自在天に対して誰人も決して疑いを起さぬであろう。


よし、苦しい不幸が自分の上にふりかかってきても、


自在天に対してうらみさからってはならない筈である。


そして、他の神々などに救いを求めることをしないで、


ただ、偏へに、自然に自在天を尊敬し、彼にのみ祈りをささぐべきである。





若し自在天が創造者であるならば、


彼は自分のことを、「自在」と呼ぶことは出来ない。


なぜなれば、彼はいまや、自分のした創造によって造られたものである。


従って、すべての時に対しても又したがって、「被創造」でなくてはならぬ。


若し彼が創造者であれば、


彼はいつも創造していなくてはならぬ。


常に創造していれば、自らを労せねばならぬ。


どうして、自在であり安楽であると言いうるであろうか。





若し自在天が無意識にこの世界を創造するならば、


その行為は思慮のない乳児に等しい。


若し自在天が何かの意図を以ってこの世界を創造するならば、


そうした行為は、既に意図がある以上又自在ではない。


生命のあるところ必ず苦悩と情慾とが存在する。


かかる苦楽の情は自在天の作るべきものではなかった。


もし、この苦楽を自在天が創造したとするならば、


自在天にも愛と憎しみとの感情が起こったにちがいない。


もし、こうした理由なき愛憎が自在天に起こるとすれば、


かれは又自在と呼ばるべきではない。





更に、もし自在天が創造者ならば、


すべての生物は只沈黙して、彼の支配力に忍びながら、従いゆかねばならぬ。


若し然らば、我らの道徳生活は何の必要があろうか。


正義を行なうも、罪悪を犯すも、みな同じことである。


それらには何等の行為の結果や報いはない筈である。


彼が若し又、我らの行為をさえも創造したとするならば、


すべての行為はみな、創造者の前に同じであるわけである。


もし、萬行が彼にとって同一ならば、


我らも、我らの行為も、すべて皆自在であるべきである。





若し、自在天が作られぬもの、すなわち無因であるとすれば、


彼の如く、一切の事物も又作られぬものである。


彼自在天以外に一つの他の創造者を承認するならば、


その時は、自在天は萬物の終極の証拠とはならないのである。


このゆえにすべての人類や生物は、


創造者なくともこれらの生命ある者は、


何物でも又たしかに存在することが出来るのである。


それゆえに、以上の如き充分なる証明の下に、


自在天の如き創造神の思想が不可能であることを示すのである。




(馬鳴)





われらの外にあるいかなる神も、


決してわれらを解放せしめえない。


われらの心内よりのみ、


救済の光明はきたる。


われら自身に於ける精進のみが、


救済をはこびきたる。


勇敢なる戦闘の中にのみ、


人類の自己解脱が存する。



(仏陀)