< 小作人はなぜ苦しいのか >


〜 内山愚堂 〜



 人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。諸君はまあ〜、親先祖の昔からこの人間の一番大事な食物を、作るのに一生懸命働いておりながら、来る年も来る年も、足らぬ足らぬで終わるとは、何たる不幸のことなのか。

 そは仏者の謂う前世からの悪報であろうか。併し諸君、二十世紀という世界的の今日では、そんな迷信に騙されておっては末には牛や馬のようにならねばならぬ。諸君はそれをうれしいと思うか。

 来る年も、来る年も貧乏して、足らぬ足らぬと嘆くことがもしも、冬の寒い時に、老いたる親を連れて、逗子や鎌倉、沼津や葉山と、寒さを厭うて遊んで歩いた為だと言うならば、そこに堪忍のしようもある。もしも夏の暑い時に、痛める妻子を引き連れて、箱根や日光へ、暑さを避けたその為に、今年は少し足らぬとでも言うならば、そこに慰める事もできよう。

 今年は長男をドイツに遊学させ、弟を大学に娘を高等女学校へ入れたので、山林も一町売ったとか、デンチ(田地)を五反質入れしたとか、言うならば、後の薬を当てにして、妻との寝物語も苦しくはなかろう。

 ところが、諸君の年が年中、足らぬ足らぬというのは決して、そんな贅沢なわけではない。正月がきたとて、盆がきたとても、新しい着物一枚着るではなし、世は二十世紀の文明で建築術は進んだと言うても、諸君の家には、音沙汰がない。諸君の家は五百年も千年も、以前の物である。しかし、それは少しも無理ではない。着物は呉服屋に、銭を出さねばならぬ。家は大工に手間賃を、払わねばならぬ。しかも諸君は悲しいことに、その銭を持たない。そこで諸君の着物はいつでもボロボロで、家は獣の巣のようである。

 しかしながら、食物は諸君が自分で作るのであるから、一番上等のものを、食うておるかというに、決してそうではない。上等の米は地主に取られて、自分は粟飯や麦飯を食して、そうして地主よりも商人よりも多く働いておる。それですら、来る年も足らぬ足らぬというのが、小作人諸君、諸君が一生涯の運である。

 これはまあ、どうした訳であろうか。一口に歌って見れば、何故にお前は貧乏する。訳を知らずば、聞かしようか。

 天子金持ち、大地主。人の血を吸うダニがおる。

 諸君はよ〜く考えて見給え。年が年中、汗水流して作った物を、半分は地主という泥棒に取られ、残る半分で、酒や醤油や塩や肥やしを買うのであるが、その酒にも、肥やしにも、すべての物に、残らず政府という大泥棒の為に取られる税金がかかって、その上に商人という泥棒が、そこで小作人諸君のように、自分の土地というものを持たずに、正直に働いておることは、一生涯貧乏と離れることは出来ないのである。

 まだそればかりならよいが、男の子が出来れば小さな間、貧乏の中で育て上げ、やれうれしや、これから、田畑の一畔も、余分に作って、借金無しでも致したいと思う間もなく、二十一となれば、嫌でも何でも、兵士に取られる。そうして三年の間、小遣銭を送って、聞きたくもない、人殺しの稽古をさせられる。それで戦争になれば、人を殺すか自分で殺されるかと云う、血生臭いところへ引っぱり出される。

 倅が兵士に三年とられておるうちに、家に居る親爺は、妻子を連れて乞食に出したという者もある。兵士に出た倅は、家が貧乏で、金は送ってくれず、金がなければ、古兵にいじめられるので、首をくくって死んだり、川へ飛び込んで死んだり、又は鉄道で死んだりした者が、何ほどあるか知れぬのである。

 こんな具合に、小作人諸君をいじめるのだもの、諸君が、朝は一番鳥に起き、夜は暗くなるまで働いたとて、諸君と貧乏は、離れることは出来ない。

 これは全体何故であろうか。同じ人間に生まれておりながら、地主や、金持ちの家に、生まれれば、二十四五までも、三十までも、学校や外国に遊んでおって、そうして、家に帰れば、夏は涼しき所に、暑さをしのぎ、冬は暖かき、海岸に家を建てて、遊び暮らしておるではないか。自分は桑の葉一枚摘みもせずに、絹の着物に包まって、酒池肉林と贅沢をして、なんにもせずに一生を遊び送るのである。諸君は、知らぬであろうが。

 大地主や金持ちが、夏の三十日を、日光や箱根で遊ぶのに、一人で、二千や三千の金を、使うと云うではないか。三千円とよ・・・。諸君が二十歳の歳から五十歳まで、休まず食わずに働いても、三千円という金は出来まいではないか。そうして、その人たちは兵士などには、出なくても宜いのである。

 小作人諸君。諸君もきっと今の金持ちや大地主のように、贅沢をしたいであろう。たまには遊んでおって、美味い物を食べたいであろう。けれども、それが諸君に出来ないと云うのは、諸君が一つの迷信を持っておるからである。親先祖の昔からこの迷信を大事にしておった為に、地主や金持ちのするような贅沢を夢にも見ることが出来ないのである。諸君が我々の云うことを聞いて、今すぐにもその迷信を捨てさえすれば、諸君は本当に安楽自由の人と成るのです。

 しかし、天子や金持ちは、諸君にこの迷信を捨てられては、自分たちが選んで贅沢をすることが出来なくなるから、昔より天子でも大名でも、この迷信をば、無くてはならぬ有難きものにして、諸君を、欺いてきたのである。それだから、諸君の為には、今の天子でも大臣でも、昔の徳川も大名も、親先祖の昔から、恨み重なる大敵であることを忘れてはならぬ。

 明治の今日もそう通り、政府は一生懸命で、上は大学の博士より、下は小学校の教師までを使って、諸君にこの迷信を捨てられぬようにしておる。そして諸君は又、これを有り難く思うておる。だから諸君は一生涯、いや孫子の代まで、貧乏と離れる事は出来ない。然らば小学教師などが、諸君や諸君の子供に教え込む迷信と云うのは何であるか。迷信と云うのは、間違った考えを大事本尊に守っておる事を云うのである。何故に諸君が昔から、この間違った考えを持っておるかと云うことは後にして、どう云う間違った考えが迷信であるかと云うことを語ってみよう。

△諸君は地主から田や畑を作らしてもらうから、そのお礼として小作米をやらねばならね。

△諸君は政府があればこそ、吾々百姓は安心して仕事をしておることが出来る。そのお礼として税金を出さねばならぬ。

△諸君は国に軍備がなければ、吾々百姓は外国人に殺されてしまう。それだから若い丈夫の者を、兵士に出さねばならぬ。

 と云う、この三つの間違った考えが深くしみ込んでおるからいくら貧乏しても、小作米と税金と子供を兵士に出すことに、反対することが出来なくなっておる。もしも小作米を出さなくても宜しい、税金を納めなくても宜しい、可愛い子供を兵士に出さなくても宜しいなどという者があれば、それはむほんにんである。国賊である、などと云うて、その実自分たちの安楽自由の為になることを、聞く事も読む事もせずにしまう。ここは一番とよ〜く考えて、読んでいただきたい。

 然らば、なぜ小作米を地主へ出さなくても宜しいものかと云うに、それは小作人諸君が、耕す所の田や畑を、春から秋まで、鍬も入れず、種も蒔かず、肥やしもせずに、ほっておいてごらんなさい。秋が来たとて米一粒、出来ませぬ。夏になって、麦半粒とれるものでない。ここを見れば、すぐに知れるではないか。秋になって米ができ、夏になって麦ができるのは、百姓諸君が一年中、汗水流して、休まずに働いた為です。そうして見れば自分が働いて出来た米や麦は、残らず百姓諸君のものである。何を寝ぼけて地主へ半分出さねばならぬと云う理屈があるか。

 土地は天然自然にあった物を、吾等の先祖が開墾して食物の出来るようにしたのである。その土地を耕して取った物を、自分の物にするのが、何で謀反人である。

小作人諸君。諸君は、長い間地主に盗まれて来たのであったが、今という今、迷いが覚めてみれば、長い長い恨みの腹いせに、年貢を出さぬばかりでなく、地主の蔵にある、麦でも金でも取り出すことは、決して泥棒ではない。諸君と吾等が久しく奪われたるものを、回復する名誉の事業である。

 次に、政府に税金を出さなくても宜しいと云うことは何故であるか。小作人諸君。難しい理屈は要らぬ。諸君は政府というもののある為に、どれだけの安楽が出来て居るか。少しでも之が政府様の有り難い所だということがあったら行ってみたまえ。昔から泣く子と地頭には勝たぬというて、無理な圧制をするのが、お互いの仕事と決まって居るではないか。こんな厄介の者を生かしておく為に、正直に働いて税金を出す小作人諸君は貧乏しておるとは、馬鹿の頂上である。

 諸君は、こんな馬鹿らしい政府に、税金を出すことをやめて、一日も早く厄介者を亡ぼしてしまおうではないか。そうして親先祖の昔より、無理非道に盗まれた政府の財産を取り返して、みんなの共有にしようではないか。之に諸君が当然の権利で、正義を重んずる人々は、進んで万民が自由安楽の為に政府に反抗すべきである。今の政府を亡ぼして、天子の無き自由国にすると云うことが、何故謀反人のすることでなく、正義を重んずる勇士のすることであるかと云うに、今の政府の親玉たる天子というのは、諸君が小学校の教師などより騙されておるような、神の子でも何でもないのである。今の天子の先祖は九州の隅から出て、人殺しや強盗をして、同じ泥棒仲間のナガスネヒコなどを亡ぼした。いわば熊坂長範や大江山の酒呑童子の成功したのである。神様でもないことは、少し考えて見ればすぐ知れる。二千五百年続き申したと言えば、さも神様ででもあるかのように思われるが、代々外はバンエイ(バンイか?)に苦しめられ、内は家来の者に玩具にせられて来たのである。

 明治になってもその如く、内政に外交に天子は苦しみ通しであろうがな。天子の苦しむのは、自業自得だから勝手であるが、それが為に、正直に働いておる小作人諸君が、一日は一日と食うことすら、苦しんでおるのだもの。日本は神国だなど、云うても諸君は少しも、有り難くないであろう。

 こんなに分かり切った事を、大学の博士だの学士だのと云う弱虫共は、言うことも書くことも出来ないで、嘘八百で人を騙し自らを欺いておる。また小学校の教師なども、天子の有り難い事を説くには困って居るが、だんだん嘘が上手になって一年三度の大祝日には、空とぼけた真似をして、天子は神の子であると云うことを、諸君や諸君の子供に、教え込んでおる。そうして一生涯、神の面を被った泥棒の子孫の為に、働くべく使うべく教えられるから、諸君は、いつまでも貧乏と離れることは出来ないのである。ここまで説けば、如何に堪忍強い諸君でも、諸君自身の、奪われておったものを取り返す為に、命懸けの運動をする気になるであろう。

 小作人諸君。諸君は久しき迷信の為に、国に軍隊が無ければ、民百姓は生きておられんものと信じておったであろう。なるほど昔も今も、いざ戦争となれば、軍隊の無い国はある国に亡ぼされてしまうに極まっておる。けれども之は天子だの政府だのと云う大泥棒があるからなのだ。

 戦争は政府と政府との喧嘩ではないか。つまり泥棒と泥棒が仲間喧嘩する為に、民百姓が難儀をするのであるから、この政府という泥棒を無くしてしまえば、戦争というものは無くなる。戦争が無くなれば、可愛い子供を兵士に出さなくても宜しいと云うことは、すぐに知れるであろう。

 そこで小作米を地主へ出さないようにし、税金と子供を兵士にやらぬようにするには、政府という大泥棒を無くしてしまうが一番早道であるということになる。

 然らば如何にして、この正義を実行するやと云うに、方法は色々あるが、まず小作人諸君としては、十人でも二十人でも連合して、地主に小作米を出さぬこと、政府に税金と兵士を出さぬことを実行したまえ。諸君が之を実行すれば、正義は友を増すものであるから、一村より一郡に及ぼし、一郡より一県にと、遂に日本全国より全世界に及ぼして、ここに安楽自由なる無政府共産の理想国が出来るのである。

 何事も犠牲無くして、出来るものではない。吾と思わん者はこの正義の為に、命懸けの運動をせよ。




(曹洞宗僧侶 内山愚堂1874-1911)