< 伝承 政治的判断 >




 ただいま、ご紹介にあずかりました丸山でございます。

 私は広い意味では「政治学」というはなはだ俗な学問をやっておりまして、今、「深い」とか「深遠な」ということを先生がいわれましたけれども、あまり深遠でない方の学問をやっておりますので、これが文学とか、宗教というようなお話でしたら、あるいはもう少し人間の根本問題にも立ち入ってお話することができるかもしれませんが、なにぶん、やっていることが政治という非常に俗な中にも俗な学問、俗な対象でありますので、そういったお話はできないのであります。ただ、同時に私は政治の問題というものは、いわゆる政治の制度とか、イデオロギーといった、そのものの内容の叙述なり、批判なりをやるだけでなく(あるいはそれももちろん大切ではありますけれども)、政治に対するわれわれの思考法、考え方の問題というものに前から興味をもっておりまして、そういう関係で政治というものを判断するうえにそもそも政治についての「思考法」というものはどういうものであるか、ということについて、私の考えていることを申し上げまして、皆さんのご批判を仰ぎたいと思うわけであります。したがって、具体的な政治問題を少し例に引きませんと、あまり話が抽象的になってしまいますから引きますけれども、それは、その現実の政治論そのものをお話するのではなくて、そういう具体的な政治の問題に対するわれわれの認識のし方というものを中心にしてお話しするわけであります。と申しますのは、その問題がいつも抜きになって、そしてすぐ内容的な政治論について、「良い」とか「悪い」とか、といっているので、そこからいろいろ困った現象が起こっているのではないかというふうに思いますから、私としては、一見抽象的でありますけれども、政治の認識方法、あるいは哲学的にいえば、「政治の認識論」ということになるわけですけれども、そういうむずかしいことをいわないでも、政治に対する認識のし方というものについての、私の考え方を若干申し上げてみたいと思うわけであります。




 私の考えでは、そういう、政治的なものの考え方、あるいは認識のし方というものは、単に狭い意味で、政府の、国会のやっている活動についてわれわれが批判したり、判断するためにだけ必要なのではなくて、われわれの日常的な政治的な活動に必要な思考法だと思うわけであります。

 政治的認識が高度であるということは、その個人、あるいはその国民にとっての政治的な成熟の度合いを示すバロメーターです。政治的に成熟しているかどうかということは、簡単にいえば政治的認識が高度であるかどうかということに換言できるわけです。つまり政治的に成熟していないということは、必ずしもその個人にとって、あるいは国民にとって、道徳的なレベルが低いということではないのであります。つまり、政治的な認識は他の種類の認識に比して、特別に高度であるというわけではなく、また逆に特別低級であるというわけでもない。しかしながら、それは政治的な場で、あるいは政治的な状況で行動する時に、そういう考え方が、いいかえれば、政治的な思考法というものが不足しておりますとどういうことになるかというと、自分のせっかくの意図や目的というものと著しく違った結果が出てくるわけであります。いわゆる政治的なリアリズムの不足、政治的な事象のリアルな認識についての訓練の不足がありますと、ある目的をもって行動しても、必ずしも結果はその通りにならない。つまり、意図とはなはだしく違った結果だ出てくるということになりがちなのであります。

 よくそういう場合に、自分たちの政治的な成熟度の不足を隠蔽するために、自分たちの意図と違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのある”わるもの”、あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明する。また説明して自分で納得するというということがよくあります。

 つまり、ずるい敵に、あるいはずるい悪者にだまされたというのであります。しかしながら、ずるい敵にだまされたという泣き言は、少なくとも政治的な状況におきましては最悪な弁解なのであります。最も弁解にならない弁解であります。つまりそれは、自分が政治的に未成熟であったということの告白なのです。特に指導者の場合にはそうです。指導者というのは、一国の指導者だけでなく、あらゆる団体において、政治的な状況において行動する場合、その団体の指導者が自分の意図と違った結果が出た場合、あるいは自分の目的と違った結果が出た時に、これは結局何者かの陰謀によってそうなった、というふうにいって弁解し、説明することは、自分の無能力の告白なのです。つまり、自分の状況認識の誤りというものが、往々にしてすべてそれが実は政治的なリアリズムの不足から出ているにもかかわらず、相手の謀略によってそういう結果が生み出された、というふうに説明されるわけです。あるいはまた、専門の政治家になると、ある目的で意識的にそういう説明を使うことがあります。

 たとえば、アメリカの民主党に対して、戦後この数年来の共和党の攻撃の最も主たる攻撃点はどういうところにあったかというと、つまりアメリカの中国政策がロシアの謀略にかかった、という説明、ロシアにしてやられた、というんですが、もしアメリカの中国戦略がすべてロシアの謀略にかかったということで説明されるとするならば、それはわれわれの言葉でいえば、アメリカの指導者の政治的認識が著しく不足している。つまりアメリカが政治的にははなはだしく未成熟である、ということと同じことです。それを別な言葉で言い換えているにすぎないのです。

 こういう状況認識の錯誤からくる失敗を敵の謀略に帰する考え方というものは、たとえば軍人などには比較的多い思考法であります。日華事変が日本政府は初めは不拡大の方針であった。それがどんどん拡大していったということについて、軍事専門家と称する人の説明をみると、うまく国共合作で抗日統一戦線にもってゆこうという、中共(中国共産党)の謀略にひっかかって拡大していった、というふうに、全部中共が綿密に陰謀をめぐらして、それが着々功を奏していったというような説明がされます。これも同じ思考の範疇にはいります。日本の状況認識の誤りという問題が、その場合にはすべて敵の謀略ということに帰せられてしまう。極端な場合には、世界中のあらゆる出来事がユダヤ人の陰謀であるという考え方があります。ユダヤ人が将棋の駒を動かすように、世界中のあらゆる所に自分の目的を実現していったという考え方が、(このごろは以前ほどではありませんが)一時あったわけであります。また、ウォール・ストリートの独占資本家が世界経済を全部あやつる陰謀をめぐらしている、というような見方もそれと似た見方です。たとえば、私人間の経済関係においてこういうような見方がおかしいということは当然とされるわけです。ある人がきょう株を買おうとしますと、それが買ったとたんに下落した。でその人は非常に損した。もしその場合にその人が、きのう自分に株を売った人間に対して、「お前の謀略にかかった」といったらそれは通用するかというと通用しないわけであります。つまり、株式市場というものに対する認識が足りなかった、ということです。相手はその市場の状況というものにより精通しておった。先の見通しをもっていたから売った。買った方はそれを見通せなかったから買ったということでありまして、それを相手の謀略にかかった、というくらいなら、初めから株に手を出さなければいいわけです。経済状況の場合には、そういう需給関係というものは、特定の人の謀略によってすべて自由になるというふうには考えられていない。それは一種の客観的な法則によって、需給関係が決まるのは当然だという常識があります。

 ところが政治の場においては、とかく状況の客観的な推移によって起こったことまでが、すべて敵の手にかかった陰謀である、というふうに考えられやすい。つまりそれだけ経済の場合に比べて政治的に成熟した認識が地につきにくいということになるわけなのであります。




 そこで、こういう政治的な思考法というものは、われわれが政治家ではないから不要なのかどうか、という問題があります。確かに政治的な場に、政治的な状況にまったく登場しない人間というものを想定するならば、その人間にとってはこれは必要のない思考法であります。逆に、政治的な場で行動することを常とする人間、つまり職業的政治家にとっては必須の(それなしには政治家の資格のないところの)一つの思考法になるわけであります。必須の思考法であるというのは、単に権力を獲得し、あるいは権力を維持し、あるいは権力を伸張するという目的にとって必要である。という意味ではありません。もちろん、そのためにはもっとも必要な思考法ではありますけれども、それだけでなしに、一般にこういう思考法なしにはほんとうの政治的な責任意識というものが成長しない。逆にいえば、どんなに個人的に徳の高い人でも、もしこういう思考法が欠けている、つまり政治的に未成熟であるという場合には、政治的な場ではなはだしい無責任に陥る。その人がとった行動は結果においてその状況に関連する多くの人間に、損害と迷惑を及ぼすということになるわけであります。

 というふうに見ますと、そのかぎりにおいては、この政治的思考法は、実はわれわれに倫理的に必要な(道徳に必要な)思考法であるともいえるわけです。政治は肚であるとか、政治は人物であるとか、よくいわれます。そこに一面の真理はあるのですが、こういう政治観というものは、とかく政治状況の客観的な認識というものを無視、もしくは軽視するところに育ちやすい考え方です。つまり、認識の錯誤からくる意図と結果との食い違い、自分が実現しようとする意図と結果との食い違いが、「不徳のいたすところであります」、あるいはそれを逆にすれば、「ずるい相手にしてやられた結果であります」というような弁解によって、そういう決定の政治的責任の問題が解除されてしまう。そういう伝統的な考え方は有徳な人なら政治的にも必ずりっぱな成熟度をもった指導者であるという、そういう神話にしばしばつながっております。あるいは、致命的な政治的錯誤を犯した指導者に対して、この人もお国のためを思ってやったんだから、つまり、その人の動機が純粋なところから出たんだから、ということでその人を是認する、あるいは弁護するという風潮にもつながるわけであります。




 政治というものはご承知のように、結果によっては人間の物理的な生命をも左右するだけの力をもっております。つまり、状況認識を誤った結果、誤った政策をたてることによって、何百万、何千万の人間の命が失われるということは、われわれがつい最近において経験していることです。そういう意味で、多くの人間の物理的生命をも左右する力をもつ、ということにおいて、政治的な責任というものは徹頭徹尾結果責任であります。行動の意図・動機にかかわらず、その結果に対して責任を負わなければならないというのが政治行動の特色です。政治が結果責任であることからして、冷徹な認識というものは、”それ自身が政治的な次元での道徳”になるわけであります。

 マキャベリズムというものは、権謀術数主義というふうにいわれて悪口の見本みたいになっておりますが、いわゆるマキャベリズムは悪いんです。しかし、思想家としてのマキャベリは、政治に必要な徳というものはどういうものか、それなしには無責任な結果を招いて非常に多くの人々に悪い影響を及ぼすという意味で悪徳になるということを徹底的に考えぬいた思想家であります。つまり、病人を癒すために劇薬を用いたのです。はなはだ極端な例を用いて、残忍冷酷な指導者で、個人道徳としてはどんなにいかがわしい人物でも、イタリーなりフィレンツェなりの統一と独立を守ったなら、それはすぐれた指導者として称えるべきだということをいったのです。それに似たことでイギリスのことわざに、「われわれは道徳堅固でトラファルガーの海戦に負けるネルソンをもつよりは、ハミルトン夫人と姦通をしても、トラファルガーの海戦に勝つ将軍をもつ方が幸福である」というのがあります。ご承知のように、ネルソンはハミルトン夫人との情事をもって名を高くした人であります。ヴィクトリア時代のイギリス人は非常に道徳的な事柄についてやかましかった。そういう意味で多くの非難はしております。その事件だけを批判すれば決していいことではない、それは悪いに決まっています。しかしながら、一定の政治的な状況というものをとれば、確かにそのイギリスのことわざにあるように、非常に道徳堅固であっても、トラファルガーの海戦に負けては、それはイギリス人に大きな害毒をもたらした無能な将軍であった、という結論はまぬがれないわけです。そういう一つの冷厳な結果責任というものが政治にはあるということです。したがってこの政治的責任の意識というものは、先ほどいったような陰謀説、どんな結果になっても、「これは敵にだまされた、敵の陰謀である」というようなものの考え方からは生じてこないということはすぐおわかりになると思います。




 したがって、政治的な思考法というものは、職業政治家には必須の徳でありますし、また、一般にどんなグループにしろ、グループリーダー、あるいはサブリーダーには、比較的に(相対的に)グループの大衆よりはより必要な資格です。また、そのグループの機能する状況が政治にかかわるほど必要になってくる認識です。

 たとえば、一般に政党と教育団体とを比較すれば、政党のメンバーの方が教育団体のメンバーより、より政治的な思考法を必要とする、これはいうまでもないことであります。しかしながら、必ずしもグループそれ自身の性格で決定されない場合があるわけです。つまり、そのグループが政治的団体であるか、それとも非政治的な団体であるか、ということは大事ではないので、むしろそれがどういう場で機能するか、そのグループがどういう場で、どういう具体的な状況で機能するか、ということが大事なのです。つまりどんな非政治的な団体でも、政治的な場で機能する時には政治的な思考法というものが妥当でなければ、そのグループの目的を実現できない、ということになるわけであります。だから、一般的にいって、たとえば労働組合、教育団体、その二つをとってみても、どっちに政治的な思考法が必要かということは、一般には決して論じられないわけです。つまり、政党と労働組合、政党と教育団体というような場合は割合にわかりやすいのですが、労働組合と教育団体という場合には政治的思考がより必要なのはどっちか、ということは軽々しく判断できない。

 なぜならば、権力はしばしば抵抗力の比較的弱い所、あるいは抵抗力が弱いと判断された所に、つまり水の低きにつくように、まずいちばん抵抗力の弱い所をねらってくるというのが、昔からの権力の常道であります。政治の目的を抵抗力の弱い所からまず先に実現しようとするわけであります。

 ご承知のように、マッカーシズムというものがここ数年来アメリカで盛んであります。これの集中目標とされたのは決して労働組合ではなかった。むしろ、教育団体、新聞・出版社、ジャーナリスト、あるいは大学教授とか弁護士とか、医者とか、だいたいインテリ組織がいちばん集中的に攻撃目標になった。これは一つには、アメリカの労組というものが徹底した経済主義で、政治的に著しく保守的であるというせいでありますけれども、他面からみると、何といっても労働組合というものは組織的な発言力が非常に強くて、うっかりそこに手を出すとひどい目にあう。それに対してインテリ層は組織がバラバラで抵抗力が弱いということとも関係がある。学者、ジャーナリスト、映画人というものがもっともねらわれたということも一つにはそういう背景もあるわけであります。したがって、もしこういう状況にたたされた場合には、労組のメンバー、あるいは労組の指導者よりも、むしろ教育者、学者、映画人、ジャーナリスト、そういった人の方がより政治的な思考法を身につけることが必要になってくる。つまり、権力の方は政治的な場に引きずり込むわけですから、そういう場合には本来それ自身は非政治的な目的をもった団体であっても、否応なしに政治的思考法を身につけなければ、自分の非政治的な目的それ自身をも実現することができなくなる、ということになるわけであります。




 今申しましたように、時代とか、状況によって、政治的な思考法が必要であるかないかという範囲、およびその程度というものは違ってくるのです。もちろん、一般的に申しますと、デモクラチックでない社会、非民主的な社会よりも、民主的な社会の方がそういう思考法が必要になってくる。なぜかというと、つまり政治的な選択と判断を要する人の層がふえ、同時にそのチャンスがふえるからです。つまり、昔は政治的な指導者、あるいは支配層だけに必要であったこの思考の訓練というものが、ますます広い人民大衆にとって必要になってくるわけでありますし、また、単に非民主的社会から民主的社会になるに従って必要になるというだけでなく、現在においてはこういう思考法がわれわれすべてに要求されているような状況にある。つまり、現代社会が、たとえば民主的な体制であっても、現代社会はわれわれの生活がすみからすみまで政治によって占領されている世界であります。したがって、そういうことを考えますと、単に民主的社会であるから、という以外に、現在の社会の状況そのものがこういう思考法を必要としているわけであります。これをいちばん簡単に示すために、政治的な行動とはそもそもどういうものか、ということを考えてみましょう。

 政治行動というものは、だいたい三つに分類されると思います。第一には直接権力を目的とする行動であります。これは政治行動であることはいうまでもない。第二は直接権力は目的としないけれども、権力状況に密接に関連する行動であります。たとえば労働組合の経済闘争、あるいはデモンストレーション、あるいは圧力団体の行動、こういうものは直接権力を目的としている行動ではない。しかし、権力状況に密接に関係しており、その意味で権力状況を動かす可能性がある。第三には政治的状況に、結果的にみると影響を及ぼす行動です。

 そうしますと、現代では第三の意味をとるとすれば、極端にいえばわれわれのあらゆる行動というものが政治行動ということになります。一見まったく非政治的な行動も、つまり本人が政治をやろうと思っているわけでもなく、また権力状況に影響を与えようという意図など少しもなくやったような私的な行動も、現代の微妙なコミュニケーションの配線構造を伝わって、結果的に政治的に影響を及ぼす。そのかぎりでは政治行動です。つまり、現在において政治から逃避することが、そのまま、それ自身が政治的意味をもつ。こういう逆説が起こっている。政治から逃避する人間が多ければ多いほど、それは政治にカウントされない要素ではなくて、その国の政治にとって巨大な影響を及ぼしてくる。つまり、専制政治を容易にする。一般人民が政治から隔たるほど専制主義的な権力というものは、容易になるということです。政治から逃避することが逆に政治に影響を及ぼす、という逆説ですね。こういう逆説が現在において多くみられるようになっております。ですから上の第三の意味においてわれわれの行動が(極端にいえば)すべて政治行動であるといえるわけです。それだけ今日においてはポリティカル・クライメート、政治の気圧配置ですね。それが政治的アクティブだけによって作られるのではない。政治に関心をもたない人の群れのムードによって、それなりに一つの政治的な気圧というものが作られるということになるわけであります。




 「政界」という言葉があります。政界ということと政治的な世界ということは、今日においては非常にギャップがあります。政界といのは特殊の、政治を職業とする人々の非常に多面多種なサークルであります。つまり、上に申したことをいいかえるならば、政治的な気圧というものは、決して「政界」によってだけ決まるものではない。また、「政界」のことだけを見ていては政治の状況認識はできない、ということになるわけであります。このことは当りまえのことでありますが、たとえば、政治的中立とか、政治から独立する、といったような言葉が非常に簡単に用いられることがありますから、一応こういうことを考えておく必要があります。「政界」というものと政治の世界というものは違うんです。今日の世界の政治を見ると、あるいは日本の政治を見るためにも、いわゆる「政界」の出来事だけを見ていてはわからない事が多い。私は日本の新聞の「政治部」というのは「政界部」というふうに直した方がいいのではないかと、新聞社の知人にからかうのですけれども、かれらもその点で、もっともだといって反駁しません。「政治」というものを報道しないで、政治に重要な出来事を報道しないで、「政界」の出来事、派閥がどうなったというような、「政界」の中の人的な関係を報道している。政界ということと政治的世界というものはくい違っているわけであります。

 さて、それでは政治的なリアリズム、先ほど申しました状況認識というものは、具体的にどういう思考法をいうのか、ということを多少例をあげてご説明してみたいと思います。もちろん、政治的な思考法について全面的にお話しするということは、私の能力を越えておりますし、こんな短い時間には話せませんが、いわば例示的にお話しするわけであります。

 よく、空理空論というものはだめだ、それは書生の政治論だというようなことがいわれます。これはある意味では正しい。政治的なリアリズムは実感だ。いわゆる空理空論は排する、書生の政治では実際政治はやれないという。そこには実際正しいものがあります。つまり、政治というものは状況にリアルな認識が必要なんだ、ということが常識的にいわれている。そのかぎりでは正しい。しかしながらここで考えていただきたいことは、政治というものはユートピアではないからといって必ずしもいわゆる理想と現実の二元論を意味するものではないということです。つまり、実際政治家は(特に日本の政治家たちはそうだと思いますが)「理想はそうだけれども現実はそうはいかないよ」というふうにいうわけであります。この言葉は一見非常に政治的リアリズムの思考法を表現しているようでありますが、しかしながらそれは、なるほどそのうちの一端を表現しておりますけれども、全部ではない。それどころか、そういう認識方法は非常に政治的にリアルでない結果を導くことがしばしばです。

 なぜかと申しますと、「理想はそうだけれども現実はそうはいかないよ」という、こういういい方というものには、現実というものがもつ、いろいろな可能性を束として見る見方が欠けているのです。現実というものをいろいろな可能性の束として見ないで、それをでき上がったものとして見ているわけであります。しかし政治はまさにビスマルクのいった”可能性の技術”です。ビスマルクの言葉を本格的に解釈するとあまり立ち入った問題になりますので、ここではそこまで介入しません。さしあたり今の政治的なリアリズムの問題に関係させて申しますと、つまり、現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメントとみられる。つまり、そこに方向判断が生まれます。つまり現実というものはいろいろな可能性の束です。そのうちにある可能性は将来に向かってますます伸びていくものであるかもしれない。これにたいして別の可能性は将来に向かってますますなくなっていく可能性であるかもしれない。そういう、つまり”方向性の認識”というものと、現実認識というものは不可分なんです。それを方向性なしに、理想はそうかもしれないけれども現実はこうだからというのは政治的認識ではない。いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方向を今後のばしていくのが正しい、どの方向はより望ましくないからそれが伸びないようにチェックする、ということが政治的な選択なんです。いわゆる日本の政治的現実主義というものは、こういう方向性を欠いた現実主義であって、「実際政治はそんなものじゃないよ」という時には、方向性を欠いた政治的な認識が非常に多いのであります。




 ご承知のように、日本では最近中共(中華人民共和国)の承認問題が貿易問題とからんでやかましくなっております。この問題については承認すべきであるとか、すべきでない、ということは、必ずしもここでの私の問題ではない。思考法の問題として私はこの例を出すんです。たとえばしばしばこういうふうにいわれます。「日本は自由国家の一員であるから中共政府を現在承認するわけにはいかない。この現実をわれわれは認識しなければならない」。こういう判断に対して、ある原理的な、あるいはイデオロギー的な立場から批判することは可能であります。けれどもそれをここで申しているのではありません。こういう判断が政治的な思考法としてどこに問題があるか、ということのいわば一つの例として問題にするわけです。

 ここでは、現実というもののもっている多元性、もしくはわれわれの思考が、果して問題のどのレベルで考えられているかというレベルの多層性というものを無視して、これを一般的・抽象的な命題に還元する思考法が典型的によく出ている。それは私にいわせれば、政治的リアリズムの思考法から遠い考え方です。日本は西欧自由陣営に属している、というのは一般的命題です。具体的に今起こっている問題をそういう一般的命題に還元して答えを出すのはリアルな政治的考え方といえない。なぜならば、自由陣営に属するから(もちろんそれ自体がいいか悪いかは人によって判断が違います)ということを前提にしても、それと中共承認ということは少しも矛盾していない。イギリスの例を見ればよくわかります。したがって、中共承認の問題は自由陣営にに属するか属さないかということとは次元の別な問題です。その次元のちがった問題を混同して、西欧自由陣営に属する以上は中共は承認できない、というふうにいわば演繹的に結論するのはリアルな思考法とはいえません。西欧自由陣営に属するという一般的次元から他の、もっと具体的な次元に属する問題を一義的に結論づける。こういう抽象的な議論の一般的な拡大主義というものは、日本における政治的な思考法に多いと思われます。もし現在中共日本に、自由陣営から離脱しろ、ということを要求しているというようなことがあるとすれば、先ほどのような考え方は一応成り立つわけです。つまり、離脱を条件にして貿易するということを要求しているというなら、それは現在できません、ということも、一応それは政治的リアリズムの立場からそういえないこともない。しかし私の知っているかぎりでは中共はそういう要求はしていない。それではなぜ日本の政策に中国が疑惑をいだくのか。これを先ほどの問題に関連させますと、つまり、国際政治において日本の方向性というものが少しも明らかでない。将来どういう方向にいこうとしているのか、その方向性というものが少しもわからない。これが疑惑の原因になっている。日本の国際政策、外交政策の今後の方向性が一向明瞭でない。ですから直接実際政治の問題に入るのはひかえますけれども、かりに私が自民党の指導者だったとしますと、私は政治的リアリズムの立場に立ってこういいます。自民党の立場というものを・・・それに対して私は批判をもっておりますけれども・・・一応前提にしてこういうふうにいいます。「現在ただちに中共の承認はできない。しかしながら必ずある適当な時期を見て承認する方針である」ということを責任ある当局者がはっきりいうんです。これは方向性を示すわけです。つまり、現実のこの瞬間には承認できない。しかしそういう方向に進んでいるという方針があれば、そこからどういう政策が出てくるかというと、そういう方向というものに対して有害な措置をとることはなるべくさしひかえ、それを促進させる方向へ一歩でも進んでいくという具体的な政策が出てくる。これがつまりビスマルクの「可能性の技術」ということです。

 そうでなくて、「現在日本の立場からいって承認できない」というだけでは、そこに方向性というものが少しも現われない。これでは先方が疑惑をもつのはもっともだと思うのです。すなわち、方向性が決まって初めて現実の中にあるいろいろな可能性のうち、どういうものを伸ばし、どういう可能性をチェックするかということが具体的に決まってくるわけであります。そいうい点からいいますと、日中貿易の話し合いが最高潮に達した最中に、岸信介さんがわざわざ台湾を訪問して、蒋介石に会って、「共に反共のために闘おう」といったというのは、どういうわけで台湾までいってそこまでいわなければならなかったかという、その背景のことは知りませんが、しかしながら現在の問題に関連させていえば、つまり日本がもしほんとうに将来は中国承認の方向に進みたいと思っているとすれば、そういう方向をチェックする要素になったということは疑いない。つまり、政治技術としては必ずしも及第ではない、むしろ落第であるといわなければなりません。こういう問題によるレベルのちがいというものを無視して、一般的・抽象的な命題に還元するという考え方は、具体的な、現在争われているいろいろな問題に、いたるところにみられます。




 いわゆる革新陣営というのは、非常に抽象的なスローガンをただふりまわしている、ということがいわれている。それはたしかにその通りであります。しかしながら、必ずしもそれは革新陣営だけのことではない。たとえば、再軍備問題についても(ここでいっているのは、やはり実質的な再軍備是非の問題でなく、思考法の問題として取り上げているのです)、「そもそも独立国である以上は軍備をもつのは当然である」という議論があります。これは抽象的・一般的命題です。これにたいして政治的リアリズムに立った思考法というものは、現在国内、あるいは世界の状況の中で、日本が再軍備の方向をすすめることはどういう意味をもつかという、そういう問題の立て方をいたします。共産主義はしょっちゅう侵略を考えているからわれわれは軍備をもつのは当然である、というふうに、保守陣営は申しますが、果して現実に今日、中ソが日本に侵略してくるかこないかということはそもそも神様以外の者は知るよしもない。神様でない以上、絶対に侵略してこないということも、逆に必ずやってくるということもいえない。ですから、こういう絶対命題としてでなく、これを政治的リアリズム(認識)の問題にふりかえていうと、こういうことになります。

 つまり、現在の状況が続くかぎり、中ソが日本に侵略してくるという事態を仮定すれば、世界戦争を予想しないでは不可能であります。つまり、中ソが日本に侵略して、他の世界の国々は無事平穏で、ただ日本への侵略を黙ってみているということは考えられない。そこで問題はこういうことになるのです。現在の状況で中国とソ連は世界戦争を賭して日本に侵略してくるだろうか。こういう実際の可能性の問題になるわけであります。朝鮮の場合でもあれだけの騒ぎになった。それを日本に侵略してきて他の国が全部平穏で、日本がさんざ荒されて、それきりになって終っちゃうということは、現実の問題として考えられるかというと、まず考えられないでしょう。つまり世界戦争を賭してまで、中国なりソ連なりが日本に兵を進めるということは現在の状況としてあるだろうか。それによって先ほどの答が決まってくるわけであります。これは状況認識の問題であります。これに対して、ああいう中国やソ連のように大きな国は隣にあって、膨大な軍備をもっている。それなのに日本は無防備ではいかにも心細いというのは、日本と中国とを世界の具体的状況から切り離して、抽象的に考えるか、あるいは何となく心細いという心理的気分に基く判断です。こういうのは政治的なリアリズムに立った判断とはいえません。ところが皮肉なことに今日では、再軍備反対論者にたいして、「道徳的には日本は無防備でもいいという考えも成り立つだろう。しかし現実の問題として考えれば、再軍備は必要である」という言い方が通用し、それがあたかも政治的なリアリズムに立った唯一の考え方であるかのようにいわれます。ですから、必ずしもそういう結論が出てくるとはかぎらないという例として今のようなことを申し上げたわけです。

 国際的な問題では、たとえば今、国連で拒否権の問題が非常にやかましくなっていることはご承知の通りです。今度はこの問題に政治的な思考法を適用してみるとどういうことになるか。ある国が拒否権を盛んに乱用するため、国連の機能が一向に強化されない。だから拒否権は制限されなければならない、という意見が世界にもかなりあります。これは私にいわせれば、政治的な思考法としては成熟した思考法とはいえません。なぜかというと、国連ができた前提というものは、もちろん世界戦争の防止です。世界戦争というものは、現在、大国と大国の争いがなければおこりません。あるいは小国の争いに大国が関与することによって世界戦争になる。したがって、大国の協調が国連の前提であり、同時に目的です。つまり何のために安全保障理事国一般にでなくて、そのうちのいわゆる大国にだけ拒否権を国連が与えたか。それはつまり、大国の協調、具体的には米ソの協調が国連の前提になっているからです。もし国連が、ある大国が他の大国を道徳的に、あるいは政治的に圧迫し、非難するための道具になったとすれば、国連のそもそもの目的に違ってくるというわけです。特別に大国に対して拒否権という特権を与えたというのは、小国の立場から考えますと不当だということになりますが、リアルに考えてそうしたのです。ということは、国際連盟の経験からきているわけでありますが、国際連盟のように総会本位にしますと、国連総会のデモクラシーというものはリアルに考えるとおかしな結果になってくる。各政府がそれぞれ一票をもつということですから、グァテマラも一票、アメリカも一票、日本も一票です。つまり、政治の立場からいえば、各政府が一票もつということですが、人民の立場からいうと何億の人民というものは何億分の一しか表現されない。これにたいして別の国の何百万の人口というものはその何倍にも表現されるということになります。必ずしもデモクラシーとはいえません。しかしその問題は別としても、少なくともある大国が集団安全保障のための制裁を、他の大国に適用すれば、形式的には国連の制裁ということですが、実際にはそれは大規模の戦争を意味する。戦争を防止するための国連が大戦争を起すという結果にもなりうるわけです。そういうことを防ぐために「必要悪」として大国の拒否権が認められている。とすれば、拒否権というものは紛争の原因ではなくて結果であります。つまり、拒否権が発動されるようになったのは大国間の協調が破れた結果であって、拒否権を発動したから大国間の協調が破れたのではない。そうすると、拒否権を制限することによっては、具体的には世界平和の問題は解決できない。原因を取り除かないで、原因から出てきた結果を取り除くにすぎない。もし拒否権を制限し、安全保障理事会は多数決ですべてを決めてしまって、少数は多数に無理に従わせるということにしたらどうなるか。国連は機能しなくなるか、それでなければ世界戦争になるか、どっちかです。それよりも、よろめいて、ぐらぐらしているけれども、すべての大国が国連に参加しているということが、まだしも世界にとってはいいんです。やたらに拒否権を乱用するのはケシカラン、少数が多数に従うのは民主主義の方式ではないかという、一般的・抽象的命題では、必ずしも世界平和の問題、いわんや国連の機能を活発にするという問題は解決されないわけです。




 ちょうど選挙が終わりましたけれども、今度はわれわれが選挙する時のいろいろな政党の選択という問題に、今の政治的思考法を適用してみることにいたします。選挙になりますと、ご承知のように各新聞がいろいろな党の公約を発表しまして、社会保障の問題、外交の問題というふうに、「表」にして非常に見やすく掲げております。で、そのこと自身を私は若干問題にしたいと思います。理想的なデモクラシーを前提にいたしますと、各政党は公約を掲げて国民に政策を約束する、国民はその中から最もいいと思われる政策を掲げている政党を選ぶということになるわけであります。みんなそういっておりますし、そうしなければいけないといっているわけです。その理屈はだれでも反対しないもっとも至極のことであります。それは政治的な教育にとっても悪いこととはいえない。少なくとも、単に情実とか縁故とか、そういうものに基いて投票するという態度から少しでも脱却させるために、各政党党派の公約を比較検討して、それに投票するという態度をより一般化するということは大事なことでありますし、そのかぎりでは私も賛成です。しかし、同時にそれによって看過されやすい面があるのではないか、ということに私は注意を向けたいんです。つまり、各政党が非常にいい公約を並べ、その公約の中でどれがいいだろうと思って選択する、そういう選択の態度にはどういう疑問があるかということを私は問題にしたいと思います。

 それはどういうことかというと、つまり、政治的な選択というものは必ずしもいちばんようもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。これは何か頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども、リアルにいえば政治的選択とはそういうものです。悪さ加減というのは、悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです。この中には二つの問題が含まれているのです。すなわち、第一に、政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい。つまり、政治というものはもともと「自治」ではなくて、政府がよい政策をやってくれるものだという伝統的な態度と容易に結びつくのです。したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あついは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対するも盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している。政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。




 こういう政治的な傾向がある時に、私は新聞の政治報道というものは、政治教育のやり方としてよほど考えてもらわなければならないと思うんです。いわゆる厳正中立を標榜する一般の新聞は、公平という名目で、たいていどの党派にもケチをつける。「政治家はうまいことをいっているけれどもだまされないようにしよう」といいます。こういう態度は、批判的態度を要請するようにみえて実はそうでないと思うんです。つまり、前から日本人の中にある、「どうせ政治家なんていう連中はろくなことはやらないんだ」という諦観に一層拍車をかける結果になると思うんです。批判的態度のようにみえて、実は政治的な無関心、政治的逃避という最も伝統的な、最も非民主的態度を助長する役割を果たしているのではないか。具体的に、A党のこういう政策よりB党のこういう政策の方が少しはましである。あるいは、B党の政策の方が少なくとも「悪さ加減」が少ないというような具体的な比較というものが政治的な判断です。前に悪さ加減の選択であるといいましたけれども、この中には二つの契機が含まれています。第一には、「悪さ加減」の微妙な差を見分けること、「なに、どれもこれも同じなんだ」ということでなくて、0,1でも、0,2でも差があればその差を見分ける目です。第二に、政治悪ということは十分知りながらなお選択するという積極的な態度です。どうせ悪いものが附随するからこそ少しでもそれを減らすために口を出すんだという、そういう逆説的な考え方です。放っとくと悪いことばかりするから、しょっちゅう監視するんだということ。いいものだから参加するというよりはむしろ悪いものだから参加して監視していく。これがつまり政治的なリアリズムの考え方ということになるわけです。

 もう一つ、具体的な例でお話します。たとえば同じ政党が非常に長く権力の座にすわっていると、元来いい政党であっても、あるいはその政党がよい政策をもち、あるいはそれをある程度実現していると仮定しても、長く権力の座にいると、そのこと自身から腐敗、堕落というものが起こりやすい、というのが歴史の教訓であります。とするならば、反対政党の公約を比較するという、それだけの政治的な判断で、A党の政策の方がよさそうだということだけでA党に投票するのは、果して政治的に成熟した認識にもとづく判断といえるか。必ずしもそうではない。それにならんで、今いったような考え方、つまり、反対政党の政策にたとえ全面的に同調しないでも、支配関係が惰性に陥っていると、そこから腐敗や独走が生じやすいので、その惰性を破るために反対党を伸張させる。現政権への批判力を大きくさせるために、反対政党に投票する、という投票行動が十分ありうるわけであります。つまりこれは、個々の政党それ自身がいいとか悪いとかいう判断に基く投票態度とは一応別の次元の問題です。”全体状況の判断”という問題がここに登場するわけです。

 江戸時代に荻生徂徠という儒者がいました。その徂徠が為政者の人事登用の仕方を論じて、「人間というものは使ってみなければわからない」ということをいっているんです。つまり、使ってみないで人間をいくらためつすがめつながめても、その人間が役人として有能か無能かということはわからない。使ってみると、この人間は案外こういう面に才能がある。あるいは、非常にできると思っていたが、こういう面では無能だということが初めてわかるということです。これは人間についていっているのですが政治や政党についても同じことがいえます。でありますから、反対党にやらせてみて、もし悪ければ次の選挙で引っ込めればいい、とにかくやらしてみようという考え方です。これが一般に欠けているのではないかというふうに私は思うのです。政党の選択についても、全体の政治状況とにらみ合わせて、もう少しこの線が出た方がいいのではないか、もう少しこの線が引っ込んだ方がいいのではないか、そういう全体状況と関連させる判断、これを政治学者が用いるむつかしい用語をつかうと、全体配合的思考(configurative thinking)、あるいは、文脈的思考(contextual thinking)といいます。ある政党が全体の政治的文脈の中にどういう役割をもつか、あるいは、この政党が出ることは政治の配線構造にとってどういう意味をもつか、という思考法をもって判断する。これは二大政党に対する少数政党の問題にもあてはまると思います。アメリカにおける第三党というものは、しばしばアメリカのデモクラシーを非常にいきいきとさせる要素になっていました。つまり、二大政党がなれあいになることを防ぐために、ラジカルな第三政党が存在して他の二大政党を牽制するという意味をもつ。これもまた権力の惰性の問題に関連するわけです。そういうことを認識すれば、必ずしも二大政党だけになっちゃうのが望ましいとはいえない。イギリスも二大政党である、アメリカも二大政党であるから、日本も二大政党であるべきだというのは、さきほどものべた抽象的命題の拡大主義といわなければならないと思うんです。

 イギリスでは、19世紀後半には自由党と保守党との二大政党が労働党の勃興によって破れました。自由党の衰退で、保守・労働の二大政党になったのは第二次大戦以後であります。アメリカの政治学者はアメリカの政党について二大政党といわずに多数政党といっております。なぜなら、南部の民主党と北部の民主党は、イデオロギー的にも、政策的にも同じ政党とはいえないのです。いろいろの由来から一つの政党になっているだけであります。実質的には多数政党なんです。そういうことは別といたしまして、イギリスもアメリカも二大政党だから、日本も二大政党でなければいかんということは必ずしもいえない。第三政党に所属しない人々というものが存在して、大きな政党を牽制するということが、ある場合には政治の活性化のためにより役にたつということもありうるわけです。私の知っているあるイギリス人と話している時に、彼が半分冗談みたいに「私が日本人なら共産党に投票するでしょうね」といいました。もちろんかれは共産主義者でも、共産主義に同調的でさえもないのです。どうしてこういうことをいったのか、それを今の問題に関連させていえばこういうふうに解釈で来るんです。日本全体の政治状況を見ると、共産党が議会に進出することが、いろいろな意味で、政治的な腐敗を牽制したり、あるいは多数政党が専制的になったり、つまり議会政治の名の下に一党独裁ができるというような事態をチェックするために、より必要ではないかという全体状況的な判断を彼が念頭においてそういったのではないでしょうか。イギリス人というものは、にくらしいほど政治的に成熟した国民ですから…。政治は宗教と違いますから、自由主義者が自由主義と名乗る政党に投票し、社会主義者が社会主義を名乗る政党に投票しなければならないというような、固定的な考え方というものは、政治の場では必ずしも妥当しないんです。それは、ことさら日本の状況ではそうであります。ですから、一見批判的な厳正中立主義の新聞は、日本ではへたをすると政治的無関心を助長するだけです。政党あるいは候補者の間に存する具体的な微妙な差を見分ける眼光を養い、さらにその時の全体状況における意味、全体状況の判断からいって、選挙の結果がどういうふうに現われるのが望ましいか・・・いや、さきほどの表現でいえば、政治の「悪さ加減」がより少なくなるか・・・について具体的な批判に立って投票するように、政治認識を成熟させるうえで、必ずしも日本のいわゆる厳正中立の新聞は貢献していないのではないか。むしろ、諸外国の新聞のように、今度の選挙で自民党を支持する、今度の選挙にはどうする、とハッキリいった方がまだいいのではないか。公約にだまされるな、ということだけいって、一見批判的にみえる論調は、ただ政治的無関心を助長するだけであって、本当に政治的な機能を果していないのではないかというふうに私は思うのであります。




 日本の政治状況を保守と革新の対立というふうに分けるのが常識になっております。しかしながら、政治的にリアルな認識というものは、こういう抽象的な二分法にはいつも警戒の念をもつんです。はたしてそういうふうに日本の政治状況は表現できるだろうか。その中にはさっきいった、一般的・抽象的命題への還元が含まれていないかということなのです。もちろん、非常に長い目で見れば、社会党あるいは共産党というような革新政党というものは、現在の経済制度であるところの資本主義というものを、社会主義的な経済制度に改めるということを目ざしており、少なくともそれを意図しているわけでありますから、そういう意味では革新的であります。それに反して自民党は資本主義を維持していこうというのですから、そういう意味では保守かもしれない。しかし、現在日本の客観的な条件というものは、具体的な問題として社会主義建設が日程に登っているか、現在社会主義建設というものの客観的な条件が存在しているか。もしも本気で「存在している」というなら、状況認識においてはなはだしく甘い、ユートピア的であるといわなければならない。もし、革新政党自身がそう思っているとすれば、はなはだしい思い上がりです。それでなければ自己欺瞞です。リアルに見れば、社会主義建設というものは全然政治的日程には存在しません。

 それでは現在の具体的な争点はどこにあるかというと、現に革新政党がどういう方向で動いているかということです。つまり、革新政党が動いている方向は大ざっぱにいって憲法擁護です。終戦後獲得された労働の基本権、労働三法、それを守ることに懸命である。何々を守ろうじゃないか、教育基本法を守ろうじゃないか、子どもを守ろうじゃないかといって、たいてい「守る」という言葉でいっている。保守政党の方はどうか。これは一般的に戦後民主主義はゆきすぎているという状況判断にたっている。むろん革新政党が、保守政党への悪口として「戦前の日本帝国の復活をもくろんでいる」とまでいうのはいいすぎでしょう。けれども一般的傾向として保守は、現在の憲法の民主主義はゆきすぎているという状況判断にたって、いくらかでも元の日本帝国に近いものにもどそうという方向で、いろいろな政策を出しているというのはリアルに見れば明らかです。政治・労働・教育、あらゆる方向にそういうものが出ている。

 そうすると、「現状はケシカランから改める」というのが保守政党で、革新政党の方は「何々を守ろう」といっている。べつに私は皮肉なことをいっているのではなくて、ありのままを申し上げればそういうことになると思うんです。現にスローガンにしろ、憲法改正反対、労働三法改正反対、基本的人権を守る、というように、むしろ革新政党の方が保守的な態度で表現されている。ある次元をとれば、何とかして現状を変えようと思っているという意味で、保守党の方が革新的です。だから政治的な選択というものは、保守か革新かの選択のようにみえるけれども、実際はそうではない。さっきいった二つの方向、つまり、終戦後獲得されたものを守っていこうという方向で選択を行なっていくか、それとも人権と民主化がゆきすぎているからそれをチェックしようという方向で選択するか。これが現在の具体的な争点です。




 社会主義建設を革新政党がいっているとすれば、よほど頭がのぼせ上がっている証拠です。革新政党自身がイデオロギーにとらわれている。革新政党としてはより広汎な国民の間に存在する、正しい意味の保守感覚というものを自分の方に動員することが必要です。実際、憲法擁護とか、原水爆反対の動きが非常に強いのは、つまり、自分たちが今現実に享受しているものを失いたくない、そういう保守的な、コンサァバティブな感覚というものを表現しているわけです。つまり、保守政党と革新政党とはイデオロギー的に逆の面があります。これを一途に「革新対保守」の対立というふうにいうのはリアルな認識ではないと私は思うんです。

 したがって、保守党の立場に立っても、中共の問題をリアルに処理していくにはどうすればいいか、ということを十分問題にしうる余地があります。また革新政党の立場に立って、そういった国民の政治感覚の中にある保守感覚をつかまえて、保守感覚を革新的イデオロギーに結びつける、そういう組織化の努力をすることが可能です。そのことがあまり認識されていないのではないか。とくに革新政党の側が、保守対革新という、非常に公式的な二分法によっているために、さっきいった戦後解放された国民の実感、つまり、現在憲法によって保障されているいろいろな権利の実感を失いたくないという保守感覚、これをもう少し政治的に昇華して、組織化する方向に努力すれば、もっと広汎な大衆を動員できるのではないか。人間の本性というものはどんな場合でも、あすはどうなるかわからないという不安がありますから、あしたもきょうのように続けばいいという気分の方が強い。人間の本性は保守的であります。というのは、物理的に慣性の法則というものがありますように、動きだしたものはいつまでも動いている。止まっているものはいつまでも止まっている。ですから、「きょうの生活が少なくともあすも続く」ということの方を、「あしたどうなるかわからない」という状況よりも望ましいとして前者を選ぶ。だから放っておけば人間の感覚というものは保守的に傾きます。

 ですから、資本主義対社会主義という形で選択をつきつけられれば、「社会主義になれば今の生活はどうなるかわからない」という不安の方が強い。現状に不満が多々あっても、ともかく今日においてもダンスはやれるし、結構民主的な権利も行使できるし、まあいまのままの方が安全じゃないか、ということになる。革新革新といって不安を与えることによって、保守感覚を正しく動員することをさまたげているのではないか。革新派には政治的なリアリズムというものが非常に不足しているということを、私にいわせればいわざるをえない。




 さっき「政界というものは非常に特殊な世界である」ということを申しました。政治のリアリズムというものがないと、政治の言葉の魔術にいかにあやつられるかということは、いわゆる政局の安定、という言葉を例にとってもわかると思います。「政局の安定」ということはしばしばいわれます。けれども政局の安定というのは、特殊な世界である政界の安定以外の何物をも意味しないんです。したがって、日本でいわれている政局の安定ということは、政界の安定であって、それは政治的安定とは必ずしも関係しないし、いわんや国民生活の安定とは何も関係しない。

 ある政党が議会で絶対多数をとれば政局は安定するでしょう。しかしそれは政治的安定に進むとはかぎらない。もし国民生活が不安ならば、必ずそれは政治的不安定になって現われます。ところが、政局の安定、不安定ということは、言葉の魔術のために政治的安定、不安定と取り違えられる。これはまだしも、さらに、国民生活が安定するかどうかということと取り違えられる。もし、政局の安定というものを国民生活の安定とするならば、なぜ実践活動にたいして政府が「破壊活動防止法」なるものを制定しなければならなかったかということが、説明がつかないわけです。つまり、いかに議会で、ある政党が絶対多数を占めても、国民生活自体の中に不安定をかもし出す要因があるならば、それは政治的な不安定になって現われます。政局が不安定であるということが、もし国民の日常生活自身が、いつも不安にさらされているかのような印象と結びつくとするならば、それはわれわれの政治的な判断の未成熟のためといわねばなりません。

 そこで、政治的リアリズムというものは、何よりもこういう言葉の魔術を見破る一つの思考法です。フランスの小党分立というのは、政局の不安定の原因で、困ったことだ、とよくいわれます。最近のアルジェリア問題はフランスの帝国主義の問題であって、いわゆるフランスの政局の不安定とは別問題でありますから切り離して考えるべきですが、フランスの政局が不安定でひんぴんと内閣が代わるということは、これはフランス人にいわせれば日本人がいうほど困ったことではない。政局の安定、不安定は政治的安定、不安定とは異なり、さらに政治的安定、不安定はその基礎にある国民生活の安定、不安定というものとは当然に区別して考えているから、むしろフランス人の個人主義からすれば、政局が不安定であった方がいい。強大な政権ができると何をするかわからない。いつも政府は代わっている方が国民生活にとっては悪いことができなくていいという考え方です。これは実際そうであるかもしれない。それじゃ、実際国民的なレベルにおいて、政治的な意識がフランスで変動しているかというとあまり変動していないんです。政党のことを専門的に研究しているフランスのある学者によると、驚くことに1870年、つまり第三共和政が成立して以来左を支持する層と右を支持する層とのパーセンテージは殆ど変っていないのです。左と右という言葉はご承知のようにフランスから発しているわけでありますが、左とは何を意味するか、右とは何を意味するかということは時代的に変わってきており、相対的な区別ですが、ともかくある時代時代において「左」を支持する国民層と、「右」を支持する国民層とのパーセンテージは1870年から現在まで5パーセント以上は変わらない。これは驚くべき政治的な安定がフランスにはあるということです。つまり、左と右とがガッチリ組んでそのまま動かないということです。政局がいつも変っていて、政局が不安定であるのがいいというわけではないんですが、しかし政局の安定ということは何かそれ自身が国民生活の安定と向上を意味すると思うのはとんでもない言葉の魔術によるもので、そういう意味で、小党分立ということを、ただちに国民生活自身がたえず不安にかき立てられている、というふうに思うとすれば、それは非常にまちがいだということを申し上げたわけです。

 デモクラシーの進展にともなって、従来政治から締め出されていた巨大な大衆が政治に参与することになったわけでありますが、巨大な大衆が政治から締め出されていく度合いが激しければ激しいほど、あるいはその期間が長ければ長いほど、多数の大衆の政治的成熟度は低い。大衆の政治的成熟度が低いと、右にいうような言葉の魔術というものは、ますます大きな政治的役割をもちます。つまり、それだけ、理性よりもエモーションというものが政治の中で大きな作用をするということになるわけであります。これをある人々は概観して、デモクラシーというものがどうも誤って大衆に過度の政治的権利を与えすぎた結果である、というふうに考えるんです。しかしもしそういう現象があるとすれば、つまり言葉の魔術というものが横行するという現象があるとすれば、それは国民大衆に過度の政治的権利を与えすぎた結果ではなくて、ながらく大衆に政治的な権利を与えなかった結果だと私は思います。これは非常に重大な考え方の分れ目であります。どちらの考え方をとるか、つまり、あまり長い間与えなかったからそういう結果になったのか、この考え方によって対策がまるで反対になってくるわけです。大衆が現実に未成熟であるということは否定しませんけれども、それでは大衆が政治的権利をもたなかった時代に、政治的な指導者の言葉の魔術にあやつられ、とらわれることが果してなかったかどうか。大衆どころか、指導者自身が初めは国民の士気を鼓舞する目的で作り出したスローガンに、いつのまにか自分自身が酔ってしまう。そのために冷静な決断ができなくなる。つまり、政治的なリアリズムを喪失する、ということは史上しばしばみられるところです。これはつい先ごろにわれわれの経験したところであります。




 東京裁判の記録を見ますと「聖戦」ということが盛んに問題になっています。つまり連合軍が、ああいう戦争をなぜ聖戦といったかということで戦犯たちに追及するわけです。つまり、連合軍側に一定の前提があるんです。つまり、国民の支配者たちが国民を欺瞞するために「聖戦」といったんだろうと思っていた。ところが、だんだん調べてみるとそれだけがすべてでない、初めはそういう言葉を大いに宣伝して、国民の意志を鼓舞しようと思っていたのでしょうが、だんだん、自分自身がイカレちゃって聖戦と思い込んじゃったという面があることが分かった。つまり、聖戦という言葉を流布することによって、国民の間にまきおこる熱狂的な空気の中に指導者自身が巻き込まれてしまった。これが世の中がデモクラシーでも何でもなかったついさきごろのお話であります。

 先ほど、にくらしいほどイギリス人は成熟した国民であるということを申しましたが、それは、民主主義の最も長い伝統をもっているということとまったく無関係ではないわけです。デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提になっている。これがあって初めてデモクラシーがよく運転する。しかしながら反面、デモクラシー自身が大衆を訓練していく、ということでもあります。この反面というものを忘れてはならない。つまり、デモクラシー自身が人民の自己訓練の学校だということです。

 大衆運動のゆきすぎというものがもしあるとすれば、それを是正していく道はどういう道か。それは大衆をもっと大衆運動に習熟させる以外にない。つまり、大衆が大衆運動の経験を通じて、自分の経験から、失敗から学んでいくという展望です。そうでなければ権力で押さえつけて大衆を無権利にするという以外には基本的ないき方はない。つまり大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく・・・そういう能力が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分かれ目です。つまり現実の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。他の政治形態の下においては、民衆が政治訓練をうけるチャンスがないわけでありますから、民衆が政治的に成熟しないといってなげいていても、ではいつになったら成熟するのか、民衆的参加のチャンスを与えて政治的成熟を伸ばしていくという以外にない。つまり、民主主義が運動でありプロセスであるということ。こういう、ものの考え方がまた政治的思考法の非常に大きな条件になってくるわけであります。

 つまり、抽象的に、二分法に考えないで、すべてそれを移行の過程としてみるわけで、その意味でデモクラシー自身が、いわば「過程の哲学」のうえに立っております。たとえば、多数決ということをよくいいますが、これはどういうことかというと、過程の哲学ぬきには考えられない。多数決についても、もし数が多ければ多いほどよいという考え方に立てば全員一致がいちばんいいということになります。だいたい閉じた共同体というものは全員一致です。つまり閉ざされた社会というものは伝統的な一つの価値が通用しておって、その価値を認めないものはそのことで村八分になる。価値は画一化しているわけでありますから、だから当然そこでは全員一致になる。誰でも同じような考え方をしている。したがって全員一致になるのは当然なんです。つまり、デモクラシーが多数決だというのはどういう意味か。多数は少数に勝つという意味が含まれるのは今さらいう必要もありませんがそれがすべてではない。多数決という考え方には、違った意見が存在する方が積極的にいいんだという考え方が根底にある。違った意見が存在するのがあたりまえで、それがないのはかえっておかしいという考え方ならば、全員一致はむしろ不自然だということになるんです。ここではじめてつまり、反対意見にたいする寛容、トレランスということが徳とみなされるようになる。これが基本的な、「多数決」についてのものの考え方の違いになってくるわけであります。つまり、こういう反対少数者が存在した方がいいという考え方から、少数意見の尊重ということが、あるいは、反対意見に対する寛容ということが、民主主義の重要な徳といわれる理由はすべてそういうところから出てくるわけであります。単純に数が多ければ多いほどいいというだけならば、すべて少数意見の尊重などはいけないことになります。つまり、歴史の長い教訓によって、今日異端の意見があすは認められ、今日はいいとされているものも、かつては異端の意見であったということが、あらためて反省され、それが少数意見に対する寛容の徳の前提になっているわけであります。

 つまり、全員一致を理想とする考え方と、デモクラチックな多数決という考え方とは似ているようで意味が逆になるわけです。多数と少数との議論によるプロセスそれ自身を重視するか、それともその結果だけを重視するかということの違いになってくるわけであります。こういうことをお話ししますと、そういう原則は初めからわかっているとお思いかもしれないけれども、具体的な事柄の政治的な判断になると必ずしもそうはならないところが問題だと思うのです。




 昨日(1958年5月23日)私、宿屋のラジオを聞いておりますと、自民党の河野一郎さんでしたか、有力な人が新橋の街頭で挨拶しているんですけれども、その時に、「選挙に勝った以上は、政治というものはきれいにわれわれにまかしてもらいたい。したがって、議長・副議長というものはもちろん自民党が独占するし、常任委員長もこの前のように社会党と話し合いということにしないで、これも独占する。選挙に勝って国民の審判が下ったから政治はきれいにおまかせ願いたい」ということをいっていたが、そういうふうに本心から考えているかどうかは別として、そういう考え方、つまり、もっぱら結果の勝ち負けでものごとを判断する考え方がいろいろな面で考えられる。結局、どっちが勝ったかという興味中心になる。これでは競馬と同じです。極端にいうと。

 だからいろいろ熱心に組合組織をしても、原水爆反対というようなことをやっていても、急にやめちゃう。いくらやったって同じだ、全部与党の言い文が通っちゃうんだから、ということで・・・。ここには二つの問題があります。一つは、先ほどいった、政治に対するあまりにも過度の期待の幻滅におわるということの一つの現われであると同時に、もう一つはここにやはり勝ち負け思想というものが現われている。悪法が通った、盛んに反対したけれども結局通っちゃった、通っちゃったら終りであるという考え方。これは終わりじゃないんです。通ったらその悪法が少しでも悪く適用されないように、なお努力をする。終局的には撤廃されるように努力するということです。だいたいいわゆる「文化人」などは、いくら反対しても通っちゃうから、反対しても意味ないというふうにいうが、これも投票の結果論からみた先の勝ち負け二分法です。ある法が望ましくないという場合に、その反対する力が強ければ強いほど、その法が成立する過程において抵抗が強ければ強いほど、できた法の運用をする当局者は慎重にならざるをえない。たとえば破防法というものはあまりいい法律ではないと私は思う。破防法はワーワー反対してさわいだけれども現実にはあまり適用されていないではないかといいますが、あれだけ反対があったからうっかり適用できないんです。つまり、投票の結果において通るか通らないかということは、政治過程における一つのファクターであるけれどもすべてのファクターではない。要するに負けちゃったじゃないか、いくらやってもだめじゃないかいう、そういう考え方には勝ち負け思想というものが非常に大きくはたらいているんです。

 たとえば、革新政党にいくら投票しても天下をとらない。天下をとらなければただの人という言葉があるけれども、政治過程としては、批判すること、反対することによって政府の政策もだんだん変ってきている、ということはリアルに見ればわかると思います。政府が面壁九年でだんだん変ってきたのではなく、抵抗があるから、こんどはこういう政策を出さないと反対党に負ける恐れがあるから、ということで政策が変わってきた。こういうふうに両面から見ていかないと、万年野党であるから何にもならないというような批判が生まれてくる。そこにはやはり天下をとればすべてで、天下をとらなければナッシングであるといった勝ち負け思想が根底にある。われわれはこういう具体的な問題について判断をする場合に、必ずしも政治的に成熟した判断を下しているとはかぎらない。そういうことを申し上げるために、あまり適切でない例もあったかもしれませんけれども、多少私の思いついた例を申し上げて、政治的なリアリズムというものはどういうものか、こういうような考え方が政治的な思考法だということをお話し申し上げたわけです。

 最初に申し上げたように、こういう思考法をもっている人が理想だとか、道徳的にりっぱな人だという意味でなく、ただ政治的な場で思考する場合に、こういう思考法が著しく不足しておれば、政治的に無責任な結果をみちびく。そして今日の状況においては、われわれの最も非政治的な行動までが、全体の政治状況に影響を及ぼす、というのが現在の宿命なんです。とすれば、政治的な認識方法というものが、決して職業的な政治家だけの問題であるとは考えられないということがおわかりになるのではないかと思います。







(1958年7月 丸山眞男)