< ブッダの偉大さ>



〜 アンベードカル 〜





ブッダは二千五百年前に生まれた。その彼について現代の思想家、科学者たちはどのように語っているか、少しく例を挙げてみるのも有意義であろう。






 「ブッダの時代の直前の時代は、インドの長い歴史の中でも最悪の暗黒期であった。知的にも遅れていた。その時代の思想的特徴は、経典の権威への絶対服従によく表れている。倫理的にも暗黒時代であった。道徳とはヒンズー信徒にとって、ヴェーダ聖典に定められた通りの宗教的儀式、祭儀を取り行うことを意味した。真に倫理的な意味での献身性とか、目的の純粋さとかは、その時代意識においては正当な位置を与えられていなかった」

byS・S・ラガヴァーチャール教授






 「ブッダの教義の特質は、インド宗教思想史を繙いてみれば明らかである。

 リグ・ヴェーダ賛歌には、自己を離れ、外の、即ち神々の世界に向かった人間の思想がみられる。仏教は、自己の中に潜む潜在性に人間の探求心を向けさせた。ヴェーダにあるのは、呪文、賛歌、祈祷だけだが、仏教において初めて、我々は心を正しく働かせるための心の修行というものを見出したのである」

byR・J・ジャクソン氏






 「我々が自然史、血と汗にまみれた数百万年の変化の歴史、生活を支配する法則、変化発展の法則を繙く時、そこに我々が見るものは、”神は愛なり”という言葉の空々しさでしかない。あらゆるものに邪悪な乱脈さと無益な浪費が見られ、生き残る生物は極めて僅かな率にすぎないことが分かる。食べる、食べられる、が自然の法則であり、殺すことは生長することなのだ」

byウィンウッド・リード氏


リード氏の『人類の殉教』という本の中の言葉である。ブッダのダンマといかに異なっていることだろう。






 「十九世紀の前半は物質、物量、エネルギー保存の法則にすっかり振り回された。誰もこの原理に異を唱えるものはなく、不滅の思想を大切にする理想主義者の切り札となった。十九世紀の科学者は、それらの原理が創造の支配的要素であり、宇宙の根源的体系を構成すると公言した。彼らは宇宙は不滅の原子で出来ていると信じた。ところが十九世紀末になると、J・J・トンプソンとその弟子たちが原子をたたき潰しはじめ、驚いたことにその原子はばらばらに崩壊してしまったのである。そしてその崩壊物は同一の、負の電荷を帯びた電子と呼ばれる物質となった。

 マックスウェルによって、宇宙の不滅の基本物質として歓迎された原子は粉々に粉砕されてしまったのである。それらは、正、負の電荷を帯びた陽子、電子に分解されてしまった。一定不変の質量という概念は永久に捨てられてしまったのである。今世紀においては、物質は刻一刻消滅していると広く信じられている。

 ブッダの”無常”が確認されたのである。

 科学は、宇宙の生成過程は、集合、分解、再集合であることを証明している。現代科学の流れは、究極的本質、エゴの統一と多様性に向かっている。現代科学は、仏教の”無常””無我”を反映させているといえる」

byランジャン・ローイ博士






 「人間は長い間、外在的権威に支配されてきた。もし人間が本当の意味で文明化されねばならぬとしたら、自分自身の原理によって自分を統御することを学ばねばならない。仏教は、己は己自身によって制せられねばならぬということを命じた最初の倫理体系である。だからこそ、より進んだ世界は、この最高の教えを仏教に求める必要があるのだ」

byE・G・テイラー氏






 「私は仏教の精神心理学に最も力強い援軍を見出している。ユニタリアン教徒(三位一体説を排し、各協会の自律を主張する一神論者)は仏教徒と同様、教会の経典、信条といった外在的権威に反対し、導きの灯火を人間自身の中に見出そうとしている」

byレスリィ・ボールトン氏






 「世界の宗教的指導者の中で、ブッダのみが外部からの援助を借りず、人間は本来授かっている偉大な内在的能力によって自らを救済することができることを証明した唯一の、栄えある存在である。もし、真に偉大な人間の価値というものが、総ての人間の価値を高めることにあるとすれば、ブッダは以上に偉大と呼べるものが他にあるだろうか?誰かをブッダの上に置いて彼を貶めようとするものは、かえって知恵と愛の最高の高みにブッダを押し上げるだけである」

byE・J・ミル氏






 「仏教の道徳的理想像”阿羅漢”は道徳的、知的にも偉大である。それは思想家であると同時に善の実践家であらねばならない。仏教において智慧は救済に対してなくてはならぬものとして常に強調され、無知・無明は救いを妨げる二大障害(もう一つの障害は渇望あるいは執着)の一つとして強調されている。それに反し、キリスト教では、智慧はキリスト教的理想像の一部であったことは一度もない。

 キリスト教的思想体系の創始者の非哲学的性格によって、人間の道徳的側面がその知的側面から切り離されてしまったのである。

 世界の不幸は邪悪によるよりも無知・無明、盲目的信仰によってはるかにひき起こされている。ブッダはそれを許そうとしなかったのだ。ブッダとその理法・ダンマの偉大さを示すにはこの一事をもってすれば十分であろう。

 ブッダこそ我々の師でなくて誰が師たりうるだろうか?」

byW・T・スティス教授






@ ブッダはキリストやマホメットなどと異なり、自分を「人間」以外の何物とも主張することがなかった。

A ブッダの教えはペシミズムではない。ブッダは「苦」の現実を注視するとともに、苦を脱し平静な心を得るための方法を説いた。

B ブッダは輪廻転生する不滅の霊魂の存在を否定した。すなわち、人間の肉体と自我とは、五蘊(色受想行識という五つの性質)の結合によって生じ、死とともに消滅するとみていた。

C ブッダは業の存在を認めていた。しかしブッダの業説は、バラモンの説く三世にわたる業説(宿命論)とは異なり、人間の行為の結果は現実の生活において自己あるいは他者のなかに留まるという因果関係の法則を説いたものである。したがって、仏教は宿命論ではなく、この世における自己の向上を奨めた教えである。

D 仏教における最高の境地「涅槃」は、現実の生活のなかで煩悩の火が吹き消された状態、完全な愛・智・善に到達した状態をいう。この世で生活するのであるから、人間には涅槃に達したのちにも当然「業」が伴う。彼の行為は全生類に幸福をもたらす利他行である。

E ブッダのダルマは合理的かつ倫理的であり、近代科学の精神との間に共通性をもっている。

byナラス氏