< 比類なき人間 >


Chorale



 世界史上最大の出来事は、人類の中最も秀でた一部が、邪教という漠然とした名前に含まれる数々の古代宗教から、唯一の神、三位一体、神の子の託身に基礎をおく一宗教に移ったその変革である。この変革は、一千年近くかかった。新宗教それ自身の出来上がるのに、少なくとも三百年はかかったのである。しかしこの変革の原因は、アウグストおよびテベリオの治下に起った一事実である。そのころ一人の優れた人物が生活していた、彼は、その与えた愛と、その大胆な独創性とをもって、人類の未来の信仰の対象を創造し、その信仰の出発点を置いたのである。

 人間は動物と区別せられたときから既に、宗教的であった、すなわち人間は、自然のうちに何か現実を越えたものを見、自分自身のために何か死を越えたものを見たのである。この感情は、幾千年のあいだ、世にも奇妙な仕方で、さまようた。




 ユダヤの国では、期待は、その極みに達していた。敬虔な人々は、・・・この中には、伝説の語るところによれば、彼を腕に抱いたという老シメオンもいたし、女預言者と見られるペヌエルの娘アンナもいたが・・・イスラエルの希望の成就するのを見るまでは、どうか神意叶って、この世から去らずにいたいものだ、と、食を断って祈りつつ、神殿のまわりで彼らの日々を過ごしていた。人々は、一つの力強い孵化を、なにか未知なるものの接近を、感じていた。

 明察と夢想との混沌たる混合、蹉跌と希望との交替、いとはしい現実に絶えず踏みにじられてきた渇仰、これらは、とうとう、それらの解釈者を、比類なき一人の人間のうちに見出したのであった、この者に、世界の信仰は、神の子という名前を与えた、それはまったく正当であった、なぜなら、この者は、宗教をして、他の如何なる歩みも比べものにならない、、そうして将来もおそらくそうであろうような歩みを、なさしめたのであるから。




 この人は、万事は自分のために神が定めてくれたのであると思い、どんなつまらない事情の中にも、思考の意思のしるしを見るのである。




 人類において血の差別を無くすことに最も力をいたしたこの人物が、どんな種族であったかという問題を取り上げ、その血管にどんな血が流れていたかを尋ねることは、不可能である。




 彼は、平民の階級から出た。父ヨセフ、母マリアは、安楽でもなく貧乏でもない近東ではごくふつうの状態で、働いて暮らす職人で、中位の身分の人々であった。このような地方における生活は、我々の国における快適な生活を作り上げている事柄を必要とせず、極度に単純な生活であるから、富者の特権はほとんど無用となり、誰しもが、勝手に、貧乏となるのである。他方、芸術に対して、および物質的生活を優美にすることに対して、まるで趣味がないから、何不足ない人の家でも無一物のような様子を見せている。




 家族は、一組の婚姻からか、若干の婚姻からか、ずいぶん大勢であった。彼は弟や妹たちを持っていた、おそらく一番年長者であったようである。これら弟や妹たちは誰も名を知られずにおわった、思うに、彼の弟とせられている四人の者は、・・・このうち少なくも一人、ヤコブはキリスト教発展の初期幾年間かにおける重要な人物となるにいたったが・・・じつは彼の従兄弟であったらしいからである。




 彼の本当の弟たちは、彼に逆らったが、従兄弟たちは、この若い師になついて、「主の兄弟」と呼ばれたのである。彼の本当の弟たちも、またその母も、ひろく人に知られたのは、彼の死後はじめてである。




 町の近郊は、美しい。絶対の幸福を夢みるのに、かくもふさわしく出来た土地は、世界のどこにもない。今日でもナザレは、実に快い滞在地である。




 町の視界は狭い、が、少し登って、どんな高い家をも見下す、絶えず微風の吹く丘に辿りつくと、眺望はすばらしい。西には、カルメル山の美しい線がひろがり、その端は、海へ跳込むように見える険しい山頂となりおわっている。それから、メギドンを見下す双峯や、族長時代の聖地のあるシケム地方の山々やシュレムやエンドルの情趣ある或いは恐ろしい追憶をまとった絵のような小さな群、ゲルボアの山々や、古代人が乳房にたとえた円やかな形のタボル山などが、展開する。シュレム山とタボル山とのあいだの低地から、ヨルダンの流域とペアレの高原とが隠見し、この高原は、東方に、遮るものなき一線を曳いている。北では、サヒェドの山々が、海の方へ傾きつつ、アッコの町を隠しているが、ハイファ湾をくっきり見せている。これが、彼の視界であった。この魅惑の天地、神の国の揺籠が、幾年かのあいだ、彼の世界であった。彼は、幼時に親しんだこの境域を越えて外に出ることは、生涯、なかった。




 もし世界が、・・・キリスト教を信ずることに変わりはないが、・・・その起源に対する尊崇を成り立たしめる事柄について最良の観念を求めえて、あの粗雑な時代の信仰心の執着していた偽りのけちくさい聖所を、正当な聖地と取替えたいと思うならば、その神殿を立てるであろう場所は、このナザレの高き丘の上である。キリスト教発顕の地、その始祖の活動が放った光の中心地、そこにこそ、あらゆるキリスト教徒の祈りうる大いなる教会は、立てられるべきであろう。




 この心地よい同時に壮大であった自然が、彼のすべての教育を果した。




 ユダヤの小さな町々の学校の先生は、ハッザーンつまり会堂の侍者であった。彼は、学者すなわちソーフェールたちの上級学校へは行かなかった、(ナザレには無かったらしい)、従って彼は、俗人の眼に智慧の権利を見せつけるあの称号を一つも持っていなかった。しかし彼が我々のいう無学者であったと考えることは、大きな誤りであろう。学校教育は、我々においてはそれを受けた人と受けなかった人とのあいだに、個人の値打ちに関し、深い差別をつける。が東方においては、および一般にずっと古代においては、そうでなかった。我々にあっては、学校に行かなかった者は、我々の孤立的な、ごく個人的な生活のゆえに、いつまでも粗野な状態に止まるのであるが、そういう状態は、精神的教養、特に時代の一般精神が、人々の絶えざる接触によって伝えられてゆくあの社会においては、見られないものである。アラビア人は、師という者を持たなかったけれど、往々、非常に優れている。思うに天幕は、いつも開かれている一種の学校であり、ここで、教養の高い人々は逢い、智的な、進んでは文学的な大きな動きを生むからである。東方では、優雅なふるまいや、繊細な心は、我々の教育と呼ぶものと何ら共通のものを持たない。むしろ反対に、学校で学ぶ連中こそ、生ま学者、誤った教育人と見られるのである。無智ということは、我々の国においては人を劣等にするが、東方のかかる社会状態においては、大事業、大独創のための条件であるのだ。




 彼は、ギリシャ語を知らなかったようである。この国語は、ユダヤでは、政治による階級や、カイザリアのように異邦人の住む町々のほかでは、一向広まっていなかった。彼固有の慣用語は、当時パレスチナで話されていたヘルブ語混じりのシリアの方言であった。況んや、彼はギリシャ文化を少しも知らなかった。




 ギリシャの教えのどんな要素も、直接にも間接にも、彼にまでとどかなかった。彼は、ユダヤ教より他には何も知らなかった。彼の精神は、さまざまの広い教養にはいつも弱められるものであるあの素直な純真さを、失わずに保っていた。彼はユダヤ教の内部にいながら、彼の努力と往々相並んで行った多くの努力には、ずっと無関係であった。一方、エッセネ教徒やテラペウトの禁欲主義は、彼の上に直接の影響を与えなかったようであり、他方、アレクサンドリアのユダヤ派・・・この派の巧みな解釈者は、これと同時代の人フィロンであったが・・・この派の試みた立派な宗教哲学の論文を、彼は知らなかった。




 彼は幸いなことに、エルサレムで学ばれておりやがてタルムッドを拵え上げていったところの奇怪なスコラ哲学を、なおさら研究しなかった。パリサイ人の幾人かが既にこの哲学をガリラヤに持ち来たっていたにしても、彼は、彼らを訪れはしなかったし、後この馬鹿げた決議論に接したときもただ嫌悪を抱かせたに過ぎなかった。しかし、ヒッレルの教えは、彼に知られないではいなかったようである。ヒッレルは、彼より五十年前に、彼の箴言と甚だ類似した箴言をのべていた。ヒッレルは、つつましく貧乏に耐えていたこと、柔和な性格を持っていたこと、為政者や祭司に反対したことなどからして、もし彼のあのようにも高い独創性に向かって師という言葉を用いることが許されるなら、彼の師であったということができる。




 旧約聖書を読むことは、はるかに深い感銘を彼に与えた。




 ダニエル書は、ことに彼の胸を打った。この書は、アンテオコス エピファネス時代の熱心な一ユダヤ人によって作られ、古代の一賢者の名を冠せられた書であるが、当代の精神の要約であった。歴史哲学の真の創造者であるこの著者は、世界の動きと諸帝国の継起とのうちに、ただユダヤ民族の天職に従属した一つの機能のみをあえて見ようとした最初の者である。彼は、少年時代から早くも、こうした高い希望に満ちていたのである。




 彼が、世界の一般情勢を知らなかったことは、彼の最も真正な説話の、どのふしぶしにも見られる。彼にとって、地上は今なお国々に分かれて戦いあっているようだ。彼は、「ローマの平和」も、彼の時代に始まった社会の新状態も知らないようだ。ローマ帝国の強さについても、何ら正確な観念を持っていなかった。




 彼の愛したものは小さな家、麦打場、岩をえぐった搾り場、井戸、墓、無花果、橄欖樹、これらの雑然とまじったガリラヤの村々であった。彼はいつも自然のそばにいた。彼は王宮を、立派な衣をまとう人々の場所と思っているように見える。イエスが王や、権力者について語るとき、その比喩に、甚だ面白い奇妙なことが盛んにのぼるのは、彼がただ、純朴という三陵鏡をとおして世界を見る村の若者のようにしてのみ、貴族社会を考えていた証拠である。

 すべての哲学の根柢でもあり、近代の学問の十分に確認もしたギリシアの学問の創造した新思想を、すなわち、古代の素朴な信仰心によって宇宙の支配力だと考えられていた超自然力を排除しようとする思想を、なおさら彼は知らなかった。




 彼は、実証的学問の方針がすでに言明せられていた時代に生まれながら、まったく超自然的な考えのうちに、生活したのである。おそらくユダヤ人にして、彼ほど強く、驚異的なるものへの渇望にとり憑かれた者はなかったであろう。大きな智的中心に生活し、じつに完全な教育を受けたフィロンも、根柢のない、質の劣った学問を持っているに過ぎない。

 この点においては、彼は、その同郷人らと少しも変わるところはなかった。彼は、悪魔を信じ、これを、一種の悪鬼と見なし、万人と同様、神経の病気は、悪霊のしわざで、悪霊が病人にとりつきこれを動かすものと考えた。彼にとって、驚異的なものは、例外的なものでなく、却って、ふつうの状態であった。超自然という観念、それは不可能だという観念は、自然に関する実験的学問の生まれる日にはじめて、現れるものである。物理学に対する何の観念も持たず、祈祷で雲の歩みを変え、病気や死をさえ防ぐと信じている者は、奇跡中に何も時に変わったものを見はしない、なぜならその者にとり、事物の流れは全く神の自由なる意思の結果なのであるから。かかる知的状態が、つねに彼のそれであった。しかし、かかる信仰は、彼の大いなる魂においては、俗人の到達していた結果と全く反対の結果を生んだ。俗人にあっては、神の特殊な働きに対する信仰は、馬鹿げた軽信となり、香具師には瞞著せられた。彼にあっては、この信仰は、人と神との親密な間柄に関する深い観念へ、および人間の力に対する大仰な信念へとつながっていったのである。この大仰な信念は、彼の力の原動力となった美しい誤謬であった、なぜなら、この誤謬は、やがて物理学者や化学者たちの目には彼を誤らしめるに違いなかったけれど、その時代の彼に、彼より前の或いは後のいかなる人も自由に用いえなかった一つの力を、与えたのであったから。




 彼の特殊の生活は、夙くから現れた。伝説は、彼が、すでに幼時から、親権に抗したこと、自己の天職に従うためにふつうの道を外れていたことを、好んで語る。親族関係が彼にとって取るに足らぬものであったことは、少なくとも確かである。彼は、彼の家族には愛せられなかったようだ、そうして時々は、家族に対し辛く当たっている。彼は、一つの思想に専念する人々の皆そうであるように、血のつながりを重要視しなくなるに至った。思想のつながりこそ、この種の人々の認める唯一のものである。




 人間的なるすべてのもの、血や、愛や、祖国を、足下に蹂踏し、ただ真と善との絶対的形相として心にやってきた思想に対してのみ、魂と心情とを守ってゆく彼を、やがて我々は見ることであろう。




 人間活動の壮烈な時代には、人はすべてを賭けすべて得る。善人、および悪人、おるいは、少なくとも、自らそう思い、他人にもそう思われる人々は、自分と対立する群衆を作る。その人々は、死刑台を経て神と崇められるにいたる。その性格は、むきだしの特長をそなえており、この特長は、その性格を、永遠の型として人々の記憶に刻み込む。人類が取って置きのもののように蔵っておき熱情と災禍との日にしか見せないあの隠れたる力を発展せしめるのに、彼を作った歴史的環境ほどふさわしい環境は、フランス革命を除いては、一つもない。

 もし、人間の思索する問題が世界の統治であり、また、最も偉大な哲学者こそ、その同朋に何を信ずべきかを語りうる最適の人であるというのなら、あの、宗教と呼ばれる道徳上教理上の大基準は、静寂と省察とから生れ出たことであろう。が、そうではない。釈迦を除くなら、宗教の偉大な始祖たちは、形而上学者ではなかった。仏教そのものは、純粋思惟から生まれ、アジアの半分を、全く政治的道徳的理由から征服した。セム族の諸宗教はといえば、これらほど、哲学的でないものはない。モーセも、マホメットも、思索者でなかった。行動の人であった。彼らが、人類を支配したのは、彼らの同国人や同時代人に、行動を提示することによってであった。彼も同様、多少ともよく構成せられた体系をそなえたような神学者でもなく、哲学者でもなかった。彼の弟子となるには、書式への署名も、信仰の誓願もいらなかった。ただ一つのこと、彼を離れず彼を愛するということだけが必要であった。彼は、神を直接に彼のうちに感じていたから、一度も神については論じなかった。キリスト教が第三世紀にはいると間もなくぶつかった煩瑣な形而上学の暗礁は、決してこの始祖の据えたものではない。彼は、教理も体系も持たなかった。彼は、不動の個人的決意を持っていた、この決意は、その強さの点で、他の現れたるどんな意思をも凌駕し、今なお、人類の運命を導いている。

 ユダヤ民族は、有利にも、バビロンの俘囚から中世にいたるまでずっと、極めて緊張した境遇のうちにいた。それゆえにこそ、民族精神を託せられた人々は、この長期間にわたり、激しい熱に動かされ、理性の或るときは上へ或るときは下へ、しかしめったにその中道に導かれることなく、書き記していったように思われるのである。嘗て人間は、極点にまで辿り着くことを目ざしたこれほど死者狂いのこれほど決然たる勇気をもって、未来と、自己の運命との問題を捕らえたことはなかった。ユダヤの思想家たちは、人類の運命を彼らの小さな種族の運命と切り離さないで、人類の歩みに関する全般的理論を心にかけた最初の人々である。ギリシャは、常に自国自身のうちに閉じこもり、もっぱらその小都市間の紛争に意を用いて、優れた歴史家を生んだし、ストイシスムは、世界の一公民および大いなる同朋の一員として見られたる人間の持つ義務について、最高の箴言をのべた、とはいえ、ローマ時代以前に、古典文学中に、全人類を含む歴史哲学の一般的体系をさがすことは徒労であろう。ところがユダヤ人は、往々セム族をして未来の大よそをすばらしく見通させる一種の予言的感覚のお陰で、宗教中に歴史をはいりこませたのである。




 ユダヤ民族は、頑なで、利己的で、嘲笑者で、苛酷で、偏狭で、狡猾で、詭弁家だという多くの欠点があるにも関わらず、歴史の物語る無私無欲の熱情の最も美しい運動を起こしたのである。対立はいつも一国の栄誉を生む。一民族の最大な偉人たちは、往々、その民族が殺すところの人々である。ソクラテスは、彼と共に生きることはできないと判断したアテナイ人を、有名にした。スピノザは、近代の最も偉大なユダヤ人である、が、ユダヤ教団は、これを、不名誉なる者として除名した。彼は、彼を十字架につけたイスラエル民族の、栄誉であった。




 彼は、思想を抱くや否や、我々の今のべた諸思想がパレスチナで作り出していた炎々たる雰囲気にはいった。これらの思想は、どの学校でも教えられてはいなかった、が、空中に在って夙にこの改革者の魂に染みとおっていた。彼は、我々の抱くような躊躇、疑惑に、決してとらわれなかった。現代人なら自分のおそらくは果敢ない運命に対し不安な気持ちを抱かないでは決して坐ることのできないあのナザレの山の頂に、彼は幾たびも、一つの疑念もなしに坐った。彼は、我々をして善行に対する死後の利得を熱烈に求めさせ我々の悲哀の源となるあの利己主義を免れて、ただ彼の仕事、彼の種族、人類のことをしか考えなかった。山々、海、青空、地平線にある高原、これらは彼にとって、自然に向かい自分の運命を問う一つの魂の憂鬱な幻ではなく、見えない世界と新しい天との確かな象徴であり、透明な蔭であった。

 彼は、彼の時代の政治的事件を大して重要視しなかった、おそらく、それには不案内であったらしい。ヘロデ王朝は、彼の世界とひどく違った世界に住んでいたから、きっと彼は、その王朝の名前だけしか知らなかったに違いない。ヘロデ大王は、ちょうど彼の生まれたその年頃に亡くなり、後世の如何に敵意ある者をしてもヘロデの名をソロモンの名と併べしめるに違いない記念物を、不滅の置土産を、しかし、継続することの不可能な未完成の事業を、遺していった。




 彼の上の、はるかに大きな影響を与えた運動は、ガウランの、すなわちガリラヤのユダの運動であった。新しくローマに征服された国々の負うすべての服従の義務の中、戸籍登録は、一番人気が悪かった。この方策は、大中央行政の命令に慣れぬ民族を驚かすのが常であるが、ユダヤ人の殊にいやがるものであった。すでにダビデのとき戸口調査は、猛烈な反抗と、預言者たちの脅迫とを招いているのである。実際、戸籍登録は、課税の基礎となるものであった。ところで課税は、純粋な神政政治の考えからすれば、神に背くことといってよかった。神が、人間の認むべき唯一の主であるのに、俗界の君主に十分の一税を払うこと、それは、ある意味で君主を神の位置に置くことである。国家という観念を全然知らなかったユダヤの神政政治は、このことからただ、世俗社会と一切の統治との否定という、彼の最後の結論を引き出しただけであった。




 賢明なる彼は、あらゆる反乱から遠ざかり、先人の蹉跌を見て自らを戒め、別の王国、別の救いを夢見ていたのである。




 彼は、その放浪の生活中、一度も警察に拘束せられたことはないのである。かように自由であったし、また何にも増して、ガリラヤは、幸福にも、パリサイ的衒学の束縛を受けること甚だ少なかったので、この国は、真にエルサレムよりも優れていた。革命いいかえればメシア思想が、そこでは、あらゆる頭脳を働かしめていた。今にも大革命が来る、と人々は信じていた。聖書は、様々の意味に曲解せられ、世にも大いなる希望に、栄養を与えていた。




 エルサレムは、その勿体ぶった博士、その味気ない教団法学者、その偽善的な鬱々とした信者をもっては、人類を征服しはしなかった。北部は、純真なシュラミの女、謙遜なカナンの女、熱情のマグダラの女、善き養父ヨセフ、処女マリアを世に与えた。北部のみがキリスト教を作ったのである。エルサレムは、反対に、パリサイ人に、据えられ、タルムッドに定められ、中世を経て我々にまでやって来ている執拗なユダヤ教のまことの生地である。

 うっとりする自然は、ガリラヤのあらゆる夢に牧歌的、魅惑的調子を与えるこのずっと峻厳さの少ない、いわば烈しさの少ない一神教的精神を作るのに、与って力があった。世にも最も陰気な地方は、おそらくエルサレム付近の地であろう。これに反しガリラヤは、緑濃く、蔭多く、まことに朗らかな国である。『雅歌』や、愛する者の唄の、紛らう方なき国である。三月と四月、野は、無比の色を思うままにした花の毛氈である。ここにいるのは小さな動物だ、が実におとなしい。すんなりした活発な雉鳩、草の上にとまっても撓まぬほど軽い青い鶇、旅人の足に踏ませそうになるほど近寄ってくる毛冠の雲雀、小川の、優しい生きいきした目の小亀、少しも怯まず、人を、すぐそばに行かせ、人を呼ぶように見える、貞節な重々しい容子の鵠、山々がこれほど調和をなして広がり、これほど高い思いを与える国は、世界のどこにもない。イエスは、この山々を特に愛したようである。彼の聖い生涯の主なるわざは、山上で行われた。最も深い霊感を受けたのは、そこである。昔の預言者たちと秘かに語りあったのも、弟子たちの目に、すでに姿の変わって見えたのも、そこである。




 喜びは、神の国の一部となるべきものである。喜びは、謙虚な心の人々、善良な意思の人々から生まれるものではないだろうか。




 彼はすでに幼時から、ほとんど毎年、祭りのためにエルサレムに旅をした。霊地詣りは、地方のユダヤ人にとり、楽しみに満ちた崇高な儀式であった。詩篇の全節は、こうして家族うちつれ、行手に、輝けるエルサレムや、畏き聖所や、共に集まる兄弟らの喜びなどを望みつつ、春、幾日かの間、丘を越え谷を巡りゆく幸福を歌うために、充てられていた。




 この旅は、民を集めてその感懐を互いに伝えあわしめ、年々、都に、大動揺の溜り場を拵えたのであるが、彼は、この旅により、民族の心と接触することができ、ユダヤ教の高慢な代表者たちの欠陥に対し、早くも激しい反感を抱かせられたに違いなかった。人は、荒野が彼のもう一つの修業場であったこと、そこに彼は長い間とどまったことを言張ろうとする。しかし荒野で彼の見出した神は、彼の神ではなかった、それは、せいぜい、厳しく恐ろしく、誰にも分からないヨブの神であった。おりおり、それは、彼を誘惑に来るサタンであった。彼は、懐かしい彼のガリラヤに戻った、そうして、心を朗らかに、胸には天使の歌をうたいつつイスラエルの救いを待つ女や子供たちの群の中で、緑なす丘々や、清冽なる泉のあいだで、天の父に逢うたのである。




 父ヨセフは、その子が公の役割を演ずるに到らぬうちに、亡くなった。かくてマリアが家長となった、そうしてこの故に、彼を、他の大勢の同名人と区別したいとき、カナへ身を引いたようである。カナは、彼女の生まれた所であったらしい。これは、ナザレから二時間か、二時間半かかる小さな町で、アソキの野の北方を割る山々の麓にある。眺望は、ナザレよりは壮大でないが、全野に広がり、ナザレの山々とセホリスの丘々とで、この上なく絵のように割られている。彼は、しばらくこの地で暮らしたようである。おそらく、ここで彼の少年時代の一部は過ぎ、彼の最初のかがやきは出た。

 彼は、父の職業をやっていた、つまり、木匠であった。それは、不面目なことでも、情けないことでもなかった。ユダヤの習慣は、知的業務に携わる者は一つの手仕事を心得ることを必要とした。どんなに有名な学者たちも、手仕事ができた。だから、あんなにも申し分ない教育のあった聖パウロは、天幕作り、あるいは壁張り工であった。彼は結婚しなかった。イ彼愛の力はすべて、彼が天職と見なしていたところのものに向けられたのである。彼のうちに認められる、女性に対する極度に優しい感情は、自分の思想に対する無限の献身的熱情と、決して別のものではなかった。彼はアッシシのフランチェスコや、フランソア ドゥサルのように、自分と同じ仕事に熱中する女性らを、姉妹のごとく迎えた。彼は、彼の数々の聖女クララやフランソアズ ドゥ シャンタルらを持ったのである。ただし、これらの聖女は、仕事をよりも彼を愛したようである。彼は、愛するより、愛せられることが深かった。極めて教養高い人々においてよくそうであるように、彼はおいて、心の愛情は、無限の柔和、窈渺とした詩、遍在的魅惑に変わったのである。彼の、身持ちの曖昧な女たちとの、親密な、自由な、全く精神の秩序に属する諸関係も、彼をして、絶えず父の栄光を思わしめ父の栄光に役立ちうるすべての美しき者に向かうとき羨望にも似た心を抱かしめたあの熱情を見れば、よく分かる。

 彼の生涯のうち明瞭でないこの時期に、彼の思想は、いかなる歩みをなしたか、いかなる省察から、預言者的生活に、はいっていったのか、それは分からない、なぜなら彼の伝記は、散乱した物語となって、正確な年代記なしに伝わっているのであるから。しかし、生きた人格の発展は、何処においても同じことだ、そうして、彼ほどの力強い人物の成長が、きわめて厳密な法則に従ったことは、疑はるべきことでない。神性に関する高い観念、・・・ユダヤ教から受けたのでなく、彼自身の大いなる魂によって創造せられたらしい・・・この観念は、ある意味で、彼の全存在の芽生えであった。




 物理学や生理学の我々に語るところによると、すべて超自然的幻想は、幻覚であるから、少しでも辻褄の合う理神論者なら、過去の偉大な信仰を領会することはできなくなってしまう。他方汎神論は、神の人格性を否定することによって、古代宗教の生ける神から幾らでも遠ざかってゆく。神を最も深く会得した人々、釈迦、プラトン、聖パウロ、アッシシの聖フランチェスコ、流転を極めた生涯の或る時期における聖アウグスチヌスらは、理神論者であったか、汎神論者であったか。かような質問は無意味である。神の存在の物質的、形而上学的証明は、この偉人たちにとって、どうでもよいことであった。この人々は、自らのうちに、聖きものを感じていた。・・・神の真の息子らのこの偉大なる家族の第一位に、彼を据えなければならない。彼は、妄想を持たない。神は、彼の外にある者に向かってのようには、彼に語らない。神は、彼のうちに在る。彼は、神と共にいることを感じている。彼は、「父」について語る事柄を彼の心中から汲み出すのである。彼は、絶えざる交わりによって神の胸中に生きる。彼は神を見ない、が、神の言葉を聞く、そうしてそのためには、モーゼのように雷鳴、燃ゆる草むらを、ヨブのように啓示の嵐を、ギリシャの古き賢者のように神託を、ソクラテスのように守護の霊を、マホメットのように天使ガブリエルを、必要としないのである。例えば聖女テレーサの経験した心像や幻覚は、ここでは、何程のものでもないのだ。神と合一したと自称するスフィ教徒の陶酔もまた全く別物である。彼は、自分が神であるという不敬な考えを、一度ものべてはいない。彼は、自分を神と直接に交わるものと信じ、神の子を信じている。人間の胸中に存在した最も高い神の意識は、彼の抱けるそれであった。

 一方、我々は、彼が、かかる魂の傾向から出発するとき、釈迦のような思索的哲学者とは決してならないことに、肯くのである。福音ほど、スコラ神学から遠いものはない。神の本質に関するギリシャの学者らの思索は、全く別の精神から出ている。神を直接に父と考えたこと、ここに彼の神学のすべてがある。そうしてそれは、彼においては、理論的教訓ーー多少とも證明せられていて、他人に教えこもうと彼の努めるような教理ーーではなかった。彼は弟子に向かい何の推論もしなかった。彼は、弟子に何ら注意の努力を払わせなかった。彼は、彼の意見を説かなかった。彼は自分で自分に説いた。




 彼は、むろん、一息に、この高い自己肯定に到達したのではなかった。しかし、彼は、初歩からすでに、神と彼とを父子の関係において、見ていたらしい。そこに、彼の独創的な偉大な行為がある。この点において、彼は決して、彼の種族には属していない。ユダヤ人も回教徒もこの美しい愛の神学を領会しなかった。彼の神は、気が向けば我々を殺し、気が向けば我々を罰し、気が向けば我々を救うような運命的な神ではない。彼の神は我々の父である。我々は、我々のうちで、「父よ」と叫ぶ微かな息吹を聴くとき、神の声を聴くのだ。彼の神は、イスラエルを自分の民として選び、これをあらゆる民の迫害から守ってやるような偏頗な専制家ではない。人類の神である。彼は、アカベア一家のような愛国者にも、ガウランのユダのような神政論者にもならない。彼は、毅然としてその民の偏見を超越し、万物の父なる神を据えたのである。かのガウラン人は、神以外の者に「主」の名を与えるくらいなら死ぬ方がよいと主張した、が、彼は、この名を、ほしい者の採るにまかせ、神のためには、もっと良い称呼を保存しておく。彼は、地上の権力者、つまり彼にとり力の代表者である人々には、皮肉に満ちた尊敬をささげつつ、至高の慰めを設けるのである。それは、おのおのが天に持つところの父への依頼であり、おのおのが心に持つところの真の神の国である。

 「神の国」あるいは「天国」の名は、世界にもたらした革命を表現するために、彼の好んだ言葉であった。




 彼は晩年、この御代は、世界の突然の更新を経て、物質的に出現しようとしている、と考えていたようである。が、それは、確かに彼の最初からの思想ではない。彼が、父なる神の観念より生み出す驚くべき道徳は、世の終わりの近きを信じ、禁欲して、ありもしない大災厄の準備をしているような熱教徒の道徳ではない、却って、それは、生きようとするところの、そうして生きてきたところの世界の道徳なのである。「神の国は汝らのうちに在るなり」と、彼は、来るべき神の国の外面的な徴をこまかに尋ね求める人々に向かって言った。神の到来に関する具体的な観念は、死ねば忘れられてしまう果敢ない誤謬、雲のようなものでしかなかったのである。真の神の国、柔和な者、へりくだる者の国を打ち建てた彼、これが初期の彼である。胸中で父の声が一そう澄んだ音色で響いていた、純潔にして混ざりもののない頃の彼である。




 人々が神の子であり兄弟であることや、これより由来する様々な道徳的結果は、世にも美しい感情で説かれていた。当時のすべてのラビのように、秩序よく理論をのべる傾向はなく、彼はその説教を、巧みな、時には謎のような、奇妙な形式の、簡潔な箴言中に含ませるのであった。こうした格言の或るものは、旧約聖書から出たし、或るものは、ずっと近い世の賢者たち、殊にソコのアンチゴノスや、シラクの子イエスや、ヒッレルの思想であった、これらの思想は、学問的研究の結果からでなく、たびたび繰り返された俚諺として、彼にまでやってきたのである。ユダヤ教の会堂は、実に表現のうまい格言をゆたかに持っており、これらの格言は当時、俚諺文学のようなものを拵えていた。彼は、この口誦的教訓のほとんど全部を、これに優れたる精神を染みこませてのち、受け容れた。




 正義については、彼は、ひろく言伝えられていた箴言を繰り返すことで満足した。「人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ」と。しかし、この古い智慧は、まだかなり利己的で、彼には十分でなかった。彼は、極度に進んだ。

「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ。汝を訴えて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ」

「もの右の目汝を躓かせば、抉り出して棄てよ」

「汝の仇を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを責むる者のために祈れ」

「人を審くな、然らば汝らも審かるることあらじ。人を赦せ、然らば汝らも赦されん。汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。与うるは受くるよりも幸福なり」

「凡そおのれを高うする者は、卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり」。

 施し、憐れみ、善行、柔和、平和を好む心、全く無欲な心などについて、彼は、ユダヤ教の会堂での教え以上のことをのべなかった。しかし彼はそれを、人を感動させる力に満ちた語調でのべ、昔から発見せらるればそれで成立つというがごときものではない。教訓を愛せしめるあの、教訓を創造する力こそ、抽象せられた真理としての教訓そのものより重要なのだ。彼によってその先人たちから借られたこれらの金言は、古への律法、『ピルケ アボット』、あるいはタルムッドにおけると全く別の効果を、福音書において挙げていることを、我々は否定することができない。世界を征服し、変えたのは、古えの律法ではなく、タルムッドでもない。福音書の道徳は(それのほとんどすべてが、ずっと古い俚諺で代用できる、という意味でなら)、それ自身では一向独創的なものではないけれど、依然として、人間の精神より出た最高の創造であり、道徳家のかつて示しえた完全なる生の再美の法典である。

 彼は、モーゼの律法に反対する言葉をのべなかった、けれどこの律法を不十分だと見ていたことは、よく分かる、そうして彼は、そのことを人に覚られるがままにしておいた。古えの賢者たちの述べた以上のことをさなければならない、と彼はつねに語るのであった。彼は、どんなわずかの冷酷な言葉をもたしなめたし、離縁やすべて誓いを禁じ、復讐の刑を非難し、高利で貸すことを咎め、色情を姦淫と同罪に見た。彼は、すべての加害を赦すことを望んだ。これら高き慈愛に関する格言を支える主想は、いつも同じ次のものであった、「・・・これ天にいます汝らの父の子とならんためなり。天の父はその日を悪しき者のうえにも善き者のうえにも昇らせたまうなり」、彼はさらに付け加えて「汝ら己を愛するものを愛すとも、何の報いをか得べき。取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある。異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」。

 ひたすら心情の上に、神を真似ることの上に、良心と天の父との直接の関係の上に憩うところの一純粋宗教、祭司もなく、外面的宗式もない宗教は、こうした教えから由来したのである。彼は、決して、この大胆なる帰結に面して退かなかった。この大胆な帰結のゆえに、彼は、ユダヤ教の只中で、第一位の革命家とせられたのではあったが。何が故に、人間とその父とのあいだに介在者がいるのか。神は心をのみ見給うのであるからには、あの、身体にしかとどかぬ行や浄めなど、何の役に立つのか。言伝えだとて、ユダヤ人にとっては極めて神聖なものであるが、きよい心に比べるならば、取るに足らないものであるのだ。パリサイ人が、祈りながら、誰か見ていてくれるかと面を向けたり、目立つように施しをしたり、信者と見せかけるための印を着物につけたりする偽善、すべてこれら偽りの信心の見せかけは、彼を反抗せしめた。「彼らはすでにその報いを得たり、と彼はのべた。汝は、施しをなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな、是はその施しの隠れんためなり。さらば、隠れたるに見給う汝の父は報い給わん。汝ら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕わさんとて、会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報いを得たり。汝は祈るとき、己が部屋に入り、戸を閉じて隠れたるに存す汝の父に祈れ。さらば隠れたるに見給う汝の父は報い給わん。また祈るとき、異邦人のごとく徒らに言葉を繰り返すな、彼らは言葉多きによりて聴かれんと思うなり。汝らの父は、求めぬさきに、汝らの必要なる物を知り給う」。

 彼は、禁欲主義の外見を少しも装わず、つねに人々が神を尋ねた寂しい場所や山上で祈ることむしろ瞑想することに満足するのであった。ほとんど何人も、彼より後の人でさえ、抱きえなかったに違いないこの、人と神との関係の高い観念は、一つの祈りに要約せられた。これを彼は、すでにユダヤ人のうちに用いられていた敬虔な句で拵え、彼の弟子に教えたのである。

 「天に存す我らの父よ、願わくば、御名を崇めさせ給え。御国を来らせ給え。御意の天におけるごとく地にも行わせ給え。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに負債ある者を我ら免すごとく、我らの負債をも免給え。我らを嘗試にあわせず、悪より救い出し給え」。天の父は、我々に必要なものを、我々よりもよく知っていたまう、何々と物を決めて願うことは神をあなどるに近い、という思想を、彼は特に力説した。




 「汝らが捧ぐるおおくの犠牲は、我に何の益あらんや。我はそれらの犠牲に飽きたり。我は、汝らが牝羊の膏に嘔吐を催し、薫物に苦しめらる、汝らの手には血満ちたるなり。汝ら、己が思いを潔くし、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平をもとめ、然るのち来るべし」。




 彼ほど、祭司的でない者はなかったし、宗教保護の口実の下に反って宗教を亡くしてしまう諸形式に抗し、彼ほど戦った者もいなかった。この点で、我々は皆、彼の弟子であり彼の後継者である。この点で、彼は一つの永遠の石を、真の宗教の基礎を据えたのである。そうして、もし宗教が人間にとって本質的なものであるとするなら、この点で、彼は、人々に依り神の座に置かれることに値したのである。一つの全く新しい観念、潔き心と、人間の兄弟愛との上に据えられた宗教の観念が、彼によって、世界に到来したのである。




 「視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかいて、汝の目より塵をとり除かせよと言い得んや、偽善者よ、まず己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて兄弟の目より塵を取り除かん」。




 ユダヤのこの頃の学者は、書物を作らなかった。すべては、会話と、公開講義とで行われ、ここでは、覚えやすい言い方をしようという努力が払われていた。だから、ナザレの若き木匠が、大方は既に広まっていたのもではあるがしかし彼の力で世界を再生せしめるべきものであったところのあの箴言を、外に出しはじめたところで、それは、一事件と言われなかった。ただ、ラビが一人ふえ、(この者が、皆の中で最もすばらしかったことは、事実であるが)、その者をかこんで、熱烈に耳を傾けつつ、未知の存在者を尋ね求める若い人々が、幾人かいたというのに他ならなかった。人々の不注意は、目醒まされるのに暇がかかる。未だキリスト教徒はいなかった、しかし真のキリスト教は据えられていた、そうしておそらく、この初期キリスト教ほど、完全なものはなかった。彼は、その後、これに、何ら永続的なるものを付け加えないことであろう。どう私は言おうか。彼は、これを危険な目に逢わすことであろう。すべて思想は、成功するためには、犠牲を払わなければならないからである。人生の戦いから、傷つかないで出て来られるものではない。

 善を抱くだけでは、実際十分でない。善を人間のうちで成就させなければならない。そのためには、純粋でない方法は必要である。福音書は、もし、マタイとルカの幾章かにとどまっていたら、ずっと完全なものとなり、今日、かくも多くの異議を招くことはなかったであろう。しかし、奇跡なしで、福音書は、世界を回心せしめえたろうか。もし彼が我々の話の到達しているこの時期で生涯を経ていたら、その一生には、我々を不快にするような頁はなかったであろう、しかし、神の目にはずっと偉大になろうとも、人々には知られずにおわったであろう。彼はすべての者のうち最善の、偉大なる知られざりし人々の群の中へ消え失せたであろう。真理は、宣べ伝えられず、世界は、父なる神より彼の享けた道徳の無限の卓越性を、役に立てえなかったであろう。




 ラファエルの絵の奥にひそむ思想は、つまらないものだ、絵のみが大切なのである。同様、道徳においても、真理は自覚の状態に移ってはじめて何らかの価値を持ち、事実として世界に具現してはじめて、その全価値を発揮するのである。平凡な徳性をそなえた人々が、はなはだ優れた箴言を書いたし、一方極めて有徳の人々が、世界において徳の伝統を継続せしむべきことを、なにもしなかった。言葉と行為に力を有ち、善を覚り、この善をして、血の値もて勝たしめたる者に、棕櫚の枝は与えられるのである。彼は、この二重の点から見て比類がない。彼の栄光は、缺くることを知らず、つねに新たにせられてゆくであろう。

 世界の運命をなお日々支配するこの崇高な人物を、神と呼ぶことは許される、ただしそれは、彼が神性のすべてのものを吸収した、あるいは神に一致したという意味においてではなく、彼が、人類をして、神に向かい最大の歩みをさせた個人であるという意味においてである。人類は、全体としてこれを見ると、その利己主義が比較的反省的であるという点だけで動物から優れた、卑しい、利己的な存在者の集合である。けれども、この一様な凡俗性の中央に、数々の円柱が空に向かってそびえ、一段と崇高な運命を証拠立てている。人間に向かって、人間が何処から来るか、何処へ向かうべきかを教えるこれらの円柱の中、最高のものは、彼である。すべて、我々の性質の中なる、最も良きもの、高きものは、彼のうちに凝集した。彼は、欠点なしではなかった、彼は、我々の闘うのと同じ欲情を征服した、彼を強めた神の御使いとは、彼の良き本心であったに他ならないし、彼を試みた悪魔とは、各人が心に持つ悪魔であったに他ならない。彼の偉大な面の多くが、弟子たちの理解力のゆえに、我々の目から失せ去ったように、彼の欠点の多くも、おそらくはまた掩われたことであろう。しかし、彼ほど、その生涯において、人類の関心をして、世俗の空しい事柄に打勝たしめた者はない。彼は、すっかり自分の思想に身を委ねきって、もう宇宙は彼のためにしか存在しなくなったほどに、この思想に万事を服従させた。彼が天国を得たのは、この湧き上がる雄々しい意思によってであった。おそらく釈迦は別とし、かくまで、家庭を、この世の歓びを、地上への心遣いの一切を踏みにじった人間はなかった。彼は、その父と、果たす自信のあった崇高な使命とによってのみ、生きた。

 我々、力なき者と定められた永遠の子供、刈り取ることなく働き、播いたものの結ぶ実を決してみることのないであろう我々は、これら半ば神である人々の前に、頭を下げよう。彼らは、我々の知らないこと、創造し、肯定し、行動することを知っていた。大きな創意が、ふたたび生まれるであろうか、それとも、今後世界は、昔時の大胆な創造者たちの拓いた道を辿ることに満足するであろうか。我々は知らない。しかし、未来の不意の現象がどんなものであろうと、彼は、凌駕せられまい。彼の宗教は、絶えず若返るであろうし、彼の伝記は、限りない涙を誘うであろうし、彼の苦悩は、最良の心を感動させるであろう、すべての時代は、人の子のうち彼ほど大いなる者の生まれなかったことを、言明してゆくであろう。





ルナン