< 十字架とさとり >


〜 鈴木大拙 〜







 十字架に磔にされたキリストの像を目にするたびに、私はキリスト教と仏教との間に横たわる深い溝を思わざるを得ない。この溝は東洋と西洋を分つ心理的な分離を象徴している。


 西洋では個人の自我が強く主張される。東洋においては我はない。自我は存在せぬ故、磔刑に処せらるべき自我もないのである。


 自我の考えに二つの次元を別つことができる。一つは相対的・心理学的・経験的自我、もう一つは超越的自我である。


 経験的自我は有限である。それ自体の存在はない。それがどんな主張をしたからとて絶対的価値などはない。それは他に依存するものである。これは相対的なわれらの思いが措定した自我にすぎない。それは仮定的なものであって、さまざまな条件に左右されるものである。そのため、自由がない。


 では、何が一体、仮の自我をして、自らが真に自由であり、真正なるものであるかのように感ぜしめるのであろうか?この妄想は一体何に由来するのか?


 その妄想は、超越的自我が経験的自我を通じて作用し、かつそこに内在しているがため、誤って受けとられることに由るのである。では、このように誤って見られた超越的自我がなぜ、相対的自我と誤って受けとられてしまうのであろうか?


 実は瑜伽唯識論派の、いわゆる末那識に相当する相対的自我は、外と内との関連性を帯びているが故なのである。


 客観的に表現すれば、経験的・相対的自我は同種のさまざまな自我の一つにすぎぬ。それは多様性をもった世界の内にあり、他の存在との接触は、断続的・間接的・過渡的なものにすぎない。内面的には、その超越的自我との接触ないし関係は、恒常的・直接、そして全体的なものである。このため内側の関係は、外側のそれほど、はっきりとは認知しがたい。しかしながらそうであるからとて、その認知は全く渾然としていて、無きに等しく、われらの日常生活の上で実用的価値が全くない、というわけではないのである。


 むしろ反対に、相対的自我の背後にある超越的自我を自覚することは、意識の根元に照明を与えることなのである。つまり、われらをして直に無意識の世界に触れさせるのだ。


 この内面的認知が、外側の事物に対して、われらがもっているようなありきたりの知識でないことは明らかである。


 この違いは二通りの現れ方をする。日常の知識の対象は、空間・時間の内に置かれていて、さまざまに計測することができるものと見做されている。ところが、内面的認識の対象は個々の対象ではない。超越的自我は相対的自我の取り調べの対象となるように、それだけを取り出すわけには行かぬ。それは絶えず、直接、相対的自我に触れているので、相対的自我から引き離されると自らの存在を顕すわけには行かなくなる。超越的自我は、実は相対的自我であり、相対的自我は超越的自我なのである。しかも、それらは一つではなく二つであり、二つではあるが二つではないのだ。それらは知性の上では分けられるが、事実上は分けることはできぬ。一方を見る者とし、他方を見られる者とすることはできぬ。なぜならば、見る者は見られる者であり、見られる者は見る者であるからだ。


 超越的自我と相対的自我のこのユニークな関係が十分に把握され、洞察されぬと、妄想だけが残ることになる。相対的自我は自ら完結したもので、思うままに振る舞うことができると思い込み、その思いで好きなように行動しようとする。


 相対的自我は超越的自我を離れて独自に存在することはできぬ。相対的自我はそれ自体では存在しない。相対的自我が自らをあたかも自存できるかのように見做し、その背後にあるものの地位を横取りしてしまうのは、正に自らの正体を全く取り違えているからなのである。


 超越的自我は、それを通じて自ら機能するための一つの形として、相対的自我を必要とすることは確かである。しかし、そうであるからとて、相対的自我の消失はとりもなおさず超越的自我の喪失をも意味するとまで考えてしまうほど、超越的自我は相対的自我と同一視されるべきではない。超越的自我は創造するはたらきであり、相対的自我は創られるものなのである。相対的自我というものは、己と相対峙している超越的自我に先立って存在するようなものではない。相対的自我が超越的自我から生まれ出るのであって、それに全面的に依存している関係にあるのだ。超越的自我がなければ、相対的自我も無いのである。結局のところ、超越的自我は万物を生み出す母なる存在と言ってよかろう。


 必ずしも意識したうえでも、また、分析した結果でもないけれども、東洋人の心情からすれば、万物は超越的自我に基づくものであるとし、また、万物はそれに帰着するものとみるのに反して、西洋人はそれ自体を相対的自我に賦与せしめ、そこを起点と見做すのである。


 つまり、相対的自我を超越的自我に関連づけて、後者を出発点とせずに、西洋人のものの考え方はしぶとく相対的自我に固執するのである。しかし、相対的自我というものは本来十全なものではない。それによっては常に満足が得られず、期待を裏切られ、何ごとも惨憺たる結末を迎えてしまうことになる。その上、西洋人のものの考え方はこのトラブルを作りだす張本人の実在を信じ込んでいるので、手っとり早く事を運んでしまおうとするのである。このようなところにもまた、いかにも西洋人なものの考え方の一例を見ることができる。その理由は、彼らは相対的自我を十字架にかけてしまったからである。


 東洋人のものの考え方には、事物の実体性に余り固執しないということがある。相対的自我をはひっそりと事を荒立てずに、超越的自我と一体となってしまう。釈尊が涅槃に入られ、弟子たちのみならず、人間であるなしに拘わらず、有情・非情も問わず、すべての存在にとり囲まれて、沙羅双樹の下で静かに身を横たえておられるありさまが描かれている。これは、正にこのような理由に基づいているのだ。始めから自我という実体が無いので、十字架の必要がないのである。


 キリスト教では、十字架を必要とし、実体性というものは非業の死を要求する。そしてこういう事態が起こると、何らかの形で復活するということがなければならぬ。というのは両者は併行関係にあるものだからである。パウロも言っているように、「キリストの甦りがなければ、われらの説教も虚しく、またあなた方の信仰も無駄ごとであろう。・・・依然として罪の中住まいであることになるから」。実を言えば、十字架は二つの意義をもっている。一方は個人的、他方では全人的なものである。第一の意義は個々の自我の崩壊であり、他方、第二の意義はキリストをしてわれらの犯すすべての罪を代わって償わせるため、死に至らしめるという教義を表すのである。これら二つの場合とも死者は復活させねばならぬ。全人的な意義なくば、崩壊と言ってみても全く意味をなさぬ。われらはアダムに死にキリストに生きるのである。このことが、上に述べた二つの意義の中味として感じとられねばならぬ。


 仏教において必要とされるのは、十字架でもなく、復活でもなく、さとりである。復活は正しく劇的であり、人間的ではあるが、その中には未だ体臭が残っている。さとりの中には天上的なるものと純粋な超越性というものがある。地上の物事はたえず刷新され、目ざましい変革を遂げる。地平線上に新たな太陽が昇ってくるや、宇宙全体が顕わとなる。


 すべての存在が個々に、あるいは全体的に成仏するのは、この体験を通じてである。さとりの境地に目ざめるのは、ある種の歴史的にしかと捕捉しうる存在だけであるばかりではなく、その構成要素として参与している一片の塵までも含む全宇宙もそうなのである。私が指を一本揚げたとする。すると、それは三千大千世界や、平凡な人間はもとより、無数の諸仏・諸菩薩が挨拶してくれることになるのである。


 復活ということがないと、十字架は全く無意味である。しかし、復活したものは昇天してしまうけれども、大地の土壌は依然として十字架に固執し続ける。ところが、さとりの場合はそれとは異なり、さとりの瞬間には大地そのものが浄土と化するのである。天に昇って、地上でこの変革があるのを待ち望む必要はないのだ。





 キリスト教の用いる象徴は人間の苦しみと関係が深いようだ。十字架はあらゆる苦しみの頂点である。仏教徒も苦しみを大いに語り、その頂点は、尼連禅河の畔の菩提樹下で寂かに坐禅している仏陀である。キリストは地上の生涯の終わりまでその苦しみを抱え続けるが、仏陀は生きている間にそれを止めをさし、その後さとりの福音を伝えるための旅を続け、最後には沙羅双樹の下で静かに世を去る。樹々は直立し、涅槃に臨む仏陀は永遠そのものの姿で水平に横たわる。


 キリストは垂直に立てられた十字架に力なく、悲嘆に暮れかけられている。東洋人の心情にとって、その状景はほとんど直視する忍びぬものがある。仏教徒にとって道端に立つ地蔵菩薩の姿は馴染み深い。その姿は優しさを象徴している。彼は直立しているのだが、それは悲しみのキリスト教的象徴と何と対照的であることか!


 では、両脚を組んで坐禅している姿と十字架とを幾何学的に対比してみよう。先ずはじめに、垂直は行動・動き・意欲を示唆する。それにたいして水平は横たわる仏陀の場合のごとく、平和・満足・知足を思わせる。坐像は堅実さ・強い信念・不動の心といった思いを与えてくれる。尻と組んだ両脚をしっかりと大地に据えると、身体は落ち着きを得る。重心は腰の辺りにかけられる。これこそ足を二つ持った生物が生きている間にとりうる最も安定した姿勢である。これはまた平和・静寂・そして自信の象徴でもある。直立した姿勢はふつう攻・守何れにせよ、闘争心を示唆するものだ。それはまた個性と押しの強さから生じた個我の自尊心を感じさせる。


 人類が両脚で立ち始めたという出来事は、四つ脚で歩き廻る他の生き物たちときっぱりと袂を分かったことを証するものであった。それ以来、人類は自由になった前足と、その結果発達した脳の故に、大地からますます独立するようになった。人類のこの発達と独立は、絶えず自分が今や大自然の主であり、それを完全に支配することができるのだという誤った考え方に導きつつある。しかもこのことは、人が地上の万物を支配するのだという聖書の伝説と相俟って、あらゆるものを支配しようという人間の考えが、然るべき限界をすら逸脱してしまうのを助長するに至ったのである。その結果、われわれは自然を征服することばかり挙げつらうようになったが、一層の鍛錬と規則、そして多分、他の何にも増して制圧することを要するわれら自身の人間性を、征することを除外してしまったのである。


 一方、両脚を組んで坐り、瞑想する姿勢は、大地と一体の存在ではあるが、そうかといって、大地の臭いを嗅ぎ、その中で泥まみれになり続けていなければならぬほどのっぴきならぬ状態にまで、それに埋没してしまっているのではないことを、人に感じさせてくれる。確かに人は大地に支えられてはいるのだが、人はあたかも超越性の至上の象徴であるかのように大地の上に坐るのである。大地に固着しているのでもなければ、それから遊離しているのでもないのだ。


 近頃はあたかも執着というものは余りにも致命的で厭うべきものであるからして、その反対の無執着を何とかして達成するよう努めねばならぬと言わんばかりに、しきりに無執着が専ら取り沙汰されているようである。しかしながら、私は、われらが何故に愛すべきもの、社会および個人を真に幸せにする事物から遠ざからねばならぬのか合点がゆかぬ。寒山や拾得は彼らなりに自由と幸せを享受していた。彼らの人生は局外者のわれらから見ると、全き無執着の人生であったと考えられよう。釈迦は七十九年の生涯に亘って、ある場所から他の場所へと、異なった生き方をしているさまざまな人びとに、さとりの福音を説き歩き、遂には尼連禅河の畔で静かに世を去った。ソクラテスはアテネで誕生し、かつ、逝去した。彼はその精力と智慧を人びとの思想の産婆役としての仕事を遂行することに用い、哲学を天界から地上に引き降ろし、最後は弟子たちに囲まれて、静かに毒人参の杯を呑み干して、七十年の生涯を了えた。


 これらの人物は、それぞれの人生を明らかに思い残すことなく存分に享受したかに見えるのだが、こういった生涯を一体どう表現したらよいのか?執着の生涯であったのか、それとも無執着のそれであったのか?私の理解の及ぶ限り、何れも隠された下心など些かも妨げられず、自由奔放な生涯を尽くしたのではなかろうか?それゆえ、上記の人びとの生涯を評価するのに、執着とか無執着といった表現は用いないで、完全に自由な生涯と呼んだ方が良いのではなかろうか。


 われらに平安と自由を齎すものは”さとり”なのだ。





 釈尊が至上のさとりを得た時、坐禅の姿をとっていた。つまり大地にへばりついてもいなかったし、また大地から遊離してもいなかった。大地と一つであり、大地から生育し、しかも、大地によって押し潰されもしなかった。変化してやまぬ万物に制約されぬ、生まれたばかりの幼児として彼は立ち上がり、片手で天を、他方の手で地を指し、「天上天下唯我独尊!」と言い放った。仏教においては、仏のとる姿として三つの主要なものが教えられている。一つは誕生、二つには正覚、三つには涅槃である。すなわち、立像・坐像・臥像である。これは人がとりうる三つの主な姿勢である。このことから分かることは、仏教はさまざまな形の(平和な穏やかな)人間の営みに深い関心をもっており、決して闘争的な活動面には関心を向けぬという事である。


 他方、キリスト教には理解に苦しむ幾つかの事柄があり、その一つは十字架という象徴である。磔刑に処せられたキリストの像は見るも怖ろしい光景であって、精神異常を来した脳の嗜虐的な衝動を連想せざるを得ない。


 キリスト教徒はこう言うかもしれぬ。十字架は何を意味するかと言えば、自我を屈服させないと、われわれは道徳的に完全な人間となることができぬ故、自我すなわち肉身を十字架にかけることを意味しているのだと。


 ここに仏教のキリスト教と異なる点なのだ。


 仏教でははっきりとこう言う。「磔に処するべき自我など始めから存在しないのだ」と。そもそも自我ありと思うことが、すべての過失と悪徳の始まりなのだ。うまく行かぬすべての物事の根源には無知がある。


 自我というものは無いからして、十字架は不要である。なんら加虐的行為などしでかすこともなく、道端に人に衝撃を与えるようなしろものを晒す必要もありはせぬ。


 仏教によれば、世界は業縁の入り組んだ網の目のようなもので、その背後にそれを思うがままに操作する像などは居らぬ。現実の物事のありのままの真相を洞察するために何よりも先ず必要なことは、無明の雲を取り払うことである。そのためには、物事のありのままの姿を明らかにかつ深く徹見する修行を積まねばならぬ。


 キリスト教はわれわれの存在の形象性を強調する傾向をもっている。そのため磔刑が登場し、次いでまた肉を食べ血を呑む象徴的儀式も加わる。キリスト教徒でない者にとっては、血を呑むと思っただけで不快感を覚える。


 キリスト教徒はおそらくこう答えるであろう。「これがキリストと一体という考えを現実化させる方法なのです」と。しかし、非キリスト教徒は次のように応答するだろう。「一体という考えはもっと何か別の方法、つまり、より穏やかで、より理に叶った、一層人間的で人間の温もりを感じさせる方法、それ程好戦的でも暴力的でもない様式で表せないものでしょうか?」と。


 涅槃像を目にする時、われらは全く異なった印象を受ける。キリストの磔刑のイメージと、人のみならず動物も交えて、弟子たちに取り巻かれて寝処に横たわっている仏陀の像は、何と対照的であることか!さまざまな種類の動物もやってきて仏陀の死を悲しんでいる様子を目にする。これは、何と興味深く、また感銘深いことではないか?


 キリストは十字架の上で垂直の姿で死し、仏陀は平面上で逝く。このことはこれのみに止まらぬにしても、仏教とキリスト教の根本的相違を象徴しているのではなかろうか?


 垂直性は行動・好戦性・排他性を、他方、水平性は平和・寛容性・寛大さを意味する。行動性であるがため、キリスト教はそれ自体の内に何か物を掻き廻し、心を揺り動かし、騒がせるものをもっている。好戦的・排他的であるがため、キリスト教は、民主主義や普遍的な友愛を標榜しながらも、他者に恣意的で、時として、威圧的な力を振るいたがる傾向をもっている。これらに照らしてみると、仏教はキリスト教とまさに正反対であることが判る。仏陀の涅槃像の平面性は時には怠惰、無関心、非活動性を示唆するかも知れぬ。しかし、仏教が平和・静寂・平静そして安定を説く宗教であることに疑いを挟む余地はない。好戦性・排他的などは全く受け付けぬ。それらとは対照的に仏教は懐の広さ・普遍的寛容性・世俗の差別意識から超然たることの方を尊重してやまぬ。


 直立することは、いつでも行動・戦い・そして相手を圧倒する態勢にあることを示すものだ。それはまだ誰かがこちらに相対峙していて、こちらが先ず相手を倒さねば、その相手がこちらを倒すやもしれぬということだ。その相手こそ、キリスト教が磔刑にしようとする”自我”に他ならぬ。この敵対者は常にこちらを脅かす故、こちらも戦闘的たらざるを得ぬ。けれども、こちらが警戒心を持ち続けることを強いているこの凶悪な敵対者が存在しないものであるということが明らかになり、一つの悪夢にすぎないこと、そして、自分に襲いかかろうとする何か実体的なものを借定することこそが迷妄にすぎぬことに合点がゆけば、われらは初めて自己および自己を取り巻く世界全体と和解し、身を横たえて万物と一体感を味わうことができうるのである。


 これですべて言い尽くしたかに思えるが、誰でも心得ておかねばならぬと思われることが一つある。それは、互いに相反するさまざまな思想を糾合し、どうしたらそれが和解し合えるのかを考察することである。このような私案はいかがなものか?平面性が常に平面性に留まるならば、その結末は死である他はない。垂直性がその硬直性を続ける限り、それは潰滅してしまうということだ。実は平面性が平面性でありうるのは、それが起き上がる傾向、つまり、それが何か別のものになる過程の一齣として、あるいは、三次元に移行せんとする直線のような傾きを孕んでいることが認知される時に限られるということだ。これは垂直性に関しても同様である。それが動くことなく垂直性を保ったままでいると、それは自分自身すらも喪失してしまう。垂直性は融通性を得、弾力性を獲得し、可動性との均衡を保っていなければならぬ。


 (ギリシャ正教の十字架と卍には密接な関係がある。多分同一の根源に由来するものであろう。けれども、卍は動的であるが、十字架の方は静的な左右相称性を象徴している。ローマの十字架はきっと他の性格を帯びた記号の発展であるに違いない)。