< 偶 像 崇 拝 >








 命のないものに望みをかける人々は惨めだ。

彼らは、人の手で造られたものを神々と呼ぶ。

技術の生み出した金銀の作品、動物の像、昔の人が加工した役に立たない石などを。

一人のきこりが手ごろな木を切り出し、その皮をすべて念入りにはぎ、巧みに手を加えて、生活に役立つ器具を造り上げた。

仕事に使った木材の余りを燃やして、食事を準備し、空腹を満たそうとした。

そのまた残りの、何の役にも立たないねじ曲がった、節目だらけの木片を、仕事の合間に取り上げて注意深く彫った。

暇つぶしとして巧みに形を整え、それを人の姿に造り上げた。

取るに足らない何かの動物に似せ、朱を使って表面を赤く色づけ、汚れをすべて塗り隠した。

ふさわしい住みかをしつらえ、壁の中に据え置いて、金具で固定した。

こうして、木像が落ちないように工夫した。

その像が自分では何もできないことを彼は知っていたからである。

それは像にすぎず、人の助けを必要とする。

財産、結婚、子供のことで彼はその像に祈り、魂のないものに語りかけるのを恥としない。

その弱い像に健康を願い、命のないものに命を乞い、全く経験のないものに助けを求め、自分の足さえ使えないものに旅の安全を祈る。

商売や事業や仕事の成功にために、手を差し伸べる力もないものに彼は力を求める。




 息子の予期せぬ若死にに打ちのめされた父親が、あまりにも早く取り去られたわが子の肖像を造り、死んでしまった人間を今や神としてあがめ、家の者たちに儀式を義務づけた。

時とともに神を汚すしきたりが力を得、法として守られるようになった。

こうして、刻まれた像が支配者たちの命令で礼拝されるようになり、遠くに住んでいるために、直接支配者たちを見て敬うことのできない人々は、離れたところにいる彼らの姿を表すために、尊敬すべき王に生き写しの肖像を造り上げた。

その場にいない者を、あたかもいるかのように熱心にへつらいあがめるためである。

偶像造りの野心は、王を知らない人々をも駆り立てて、偶像崇拝を広めさせた。

彼は権力者に取り入るため、腕を振るって肖像を実際よりも美しいものに造り上げた。

多くの人は職人の見事な技に引かれ、先程まで人間として敬っていた者を、今や、礼拝の対象と見なすようになった。

このことは人の生涯にとって罠となった。

災難や権力に支配された人々が、神聖な名を石や木に与えたから。


by 知恵の書






 神々の像は金や銀で覆われ、その舌は職人が磨き上げたものであり、まやかしにすぎず、口を利くこともできません。おしゃれな娘にでもしてやるように、人々は金で冠を造り、神々の像の頭に載せています。ときには祭司たちが、神々の像から金や銀をくすねて自分のものとし、その一部を神殿娼婦に与えることもあります。神々の像は、人間のするように、衣で飾られますが、もともと金や銀や木でできていて、さびと虫食いから身を守れないのです。紫の衣をまとってはいますが、自分の上に神殿の埃が積もるために、顔をふいてもらう有様です。また、地方総督のように笏を持っていますが、自分に対して罪を犯す者を殺すことができません。右手に短剣や斧をもっていますが、戦争や盗賊から身を守ることもできません。このように、それらの像が神でないことははっきりしているのですから、恐れてはなりません。


 人間が作った器は、壊れてしまえば何の役にも立ちませんが、彼らの神々の像も同じようなもので、神殿に据えられているだけのものです。その目は、出入りする人々がたてる埃にまみれています。また、王に危害を加えた者を死刑にするとき城門を閉ざすように、祭司たちは神殿を扉と鍵とかんぬきで固めて、盗賊に略奪されないようにします。祭司たちは必要以上にともし火をともしますが、神々の像はそのともし火一つ見ることができないのです。神々の像は、あたかも神殿の梁のようなもので、よく言われるように、その内部は虫に食われています。地からわいた虫が体や衣をかじっても、何も感じません。その顔は神殿に漂う煙で黒ずんでいます。その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。このようなことで、それらの像が神でないことは分かるはずですから、恐れてはなりません。


 神々の像を美しく装わせるためにはり付けた金も、だれかがその曇りをふき取らなければ輝きません。鋳型に流し込まれたときも、何も感じていませんでした。莫大な値段で買い求められますが、それらは息をしていません。歩けないので人間の肩に担がれ、自分の不名誉をさらけ出し、それに仕える者でさえ恥ずかしい思いをしています。というのは、神々の像は地面に倒されると、もう自分では立ち上がれず、まっすぐに立たされても自分では動けず、傾けられても身を起こせないからです。その前には、献げ物が供えられていますが、死人の前に置いたも同然です。祭司たちは、神々の像に供えられたいけにえを売ってもうけ、その妻たちもその幾分かを塩漬けにしてしまい込み、貧しい者や弱い者に分けようとはしません。月のもののある女や、子を産んだばかりの女も、いけにえに平気で触れています。これらのことから、それらの像が神でないことは分かるのですから、それらを恐れてはなりません。


 いったいどうして、それらの像を神と呼ぶことができるのでしょうか。女たちが、金や銀や木でできた神々の像に献げ物を供えています。神殿では、祭司たちが裂けた祭服をまとい、髪もひげもそり落とし、頭にかぶり物もせずに、死者の弔いの宴でするように、それらの像の前でわめいたり、叫んだりしています。祭司たちはまた、神々の像の衣をはぎ取って自分の妻や子供に着せています。神々の像は、だれかに良いことをされても悪いことをされても、それに報いることはできず、王を立てたり廃したりすることもできません。また、富や金銭を与えることもできないし、誓いを立てて果たさない者がいても、それを強制できません。人間を死から救うことも、弱い者を強い者から救い出すこともできず、盲人を見えるようにすることも、苦しむ者を救い出すこともできません。やもめを憐れむことも、孤児に恵むこともできません。金銀で覆った木彫りの像は、山から切り出された石と同じであり、それに仕える者は恥をかくことになるでしょう。それなのに、いったいどうして、それらの像を神であると考えたり、宣言したりすることができるのでしょうか。


 実は、カルデア人自身、神々の像の面目を傷つけるようなことをしているのです。口の利けない者を見つけると、ベル神に前に連れて行き、ベル神なら聞き届けてくれると信じ、彼の口が利けるようになることを願っています。彼らはその無力さを知っていながら、それらの像を捨てきれずにいます。彼らは全く分かっていないのです。女たちはひもを頭に巻いて道端に座り、ぬかをいぶしています。そのうちのだれかが、通りすがりの男に連れて行かれて一緒に寝ることになると、その女は隣の女をあざけって「あなたはわたしみたいに魅力がないから、まだひもが解かれないのよ」と言います。神々の像にかかわることはすべてまやかしです。それなのに、いったいどうして、それらの像を神であると考えたり、宣言したりすることができるのでしょうか。


 神々の像は彫り物師や飾り職によって造られたもので、職人が造ろうと思う以外のものにはなりません。神々の像を造る者でさえ、人より長生きするわけではありません。だから、どうして彼らの手になった物が神になれるでしょうか。彼らは後世の人々に偽りとあざけりを残したにすぎないのです。戦争や災難が神々の像にふりかかると、祭司たちはそれらを抱えて、どこに隠れようかと論じ合います。戦争や災難から自分を救えない像など神ではないと、どうして悟らないのでしょうか。それらは、金銀で覆った木彫にすぎないから、まやかしだということが、やがて分かるでしょう。それらの像は神ではなく、人間の手で造られた物であり、それらに神の働きをする力は少しもないことが、あらゆる民族や王たちに明らかになるでしょう。それらの像が神でないことを分からない人がいるでしょうか。


 神々の像は一国に王を立てることも、人間に雨を恵むことも決してできません。神々の像は無力なので、自分に関する事柄を決定することも、虐げられた人を救うことも決してできません。神々の像は天と地の間を飛び回るだけの烏のようなものです。金銀で覆った木彫りの神々の像の置かれた神殿が火事になると、祭司たちは逃げて生き延びますが、中の梁と一緒に神々の像は燃え尽きてしまいます。神々の像は、王にも敵にも太刀打ちできません。いったいどうして、それらの像を神と認めたり、考えたりすることができるのでしょうか。


 金銀で覆った木彫りの神々の像は、盗賊や略奪者から身を守ることは決してできません。この強盗どもは金や銀をはがし取り、まとっている衣さえ奪って行きますが、神々の像は決して自分を救えないのです。ですから、まやかしの神々よりも自分の武勇を誇示する王の方が、いやそれどころか、家で持ち主に重宝がられる器の方がましです。まやかしの神々よりは家にある物を守ってくれる扉の方が、また、まやかしの神々よりは王宮の木の柱の方がましです。太陽も月も星も光り輝いて自分の務めに忠実です。稲妻もきらめくとはっきり見えます。同じように、風はどこの国にも吹き渡ります。雲も神に命じられると、世界のどこへでも流れて行き、その言いつけを果たします。火も天から送られると、山や森を焼き払い、その命令を果たします。しかし、神々の像は、姿も力も、これらのものとは比べものになりません。神々の像は裁きを行うことも、人間に恵みを施すこともできないのですから、それらを神と考えたり、宣言したりしてはなりません。そういうことから、それらの像は神でないことが分かるのですから、恐れてはなりません。


 神々の像は、王を呪うことも祝福することも決してできず、諸国の民に天のしるしを示すことも、太陽のように輝くことも、月のように照らすことも決してできません。それらの像よりは野獣の方がましです。野獣は隠れ場に逃れて身の安全を図れるからです。結局、それらの像が神であることを示す証拠は何一つないのですから、恐れてはなりません。


 金銀で覆った木彫りの神々の像は、きゅうり畑のかかしと同じで、何も守ることができません。また、金銀で覆った木彫りの神々の像は、どんな鳥でも来てとまる庭の茨のやぶ、更に闇に投げ捨てられるしかばねにさえ似ています。神々の像がまとっている紫布と亜麻布が腐っているところからも、それらが神でないことが分かるでしょう。神々の像は、ついには虫に食われて、国中のあざけりの的となるでしょう。ですから、偶像を持たない正しい人の方がまさっています。辱めを受けることがないからです。


by エレミヤの手紙









金仏や木仏や画像石仏 ありがたがるも口きかぬゆえ



木の阿弥陀金の弥勒に石地蔵 尊み拝む人ぞおかしき



絵に写し木に刻めるも弥陀は弥陀 かかず刻まぬ弥陀はいずくぞ



直なるもゆがめる川も川は川 仏も下駄も同じ木のきれ



by一休