<伝承 万世一系神話 U>



 ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀の頃にはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服従した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における絶えざる勢力の伸長とは、皇室の地位を固めるには充分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものはなく、その地位を奪い取ろうとするものもなかった。そうしてそれはそれを助ける種々の事情があったと考えられる。


 その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服し、それによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族のうちから起こって次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した情勢が上にいったようなものであったことの、自然の成り行きとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。


 もし何らかの特殊の事情によって反抗するものが出るとすれば、それはその独立の君主としての地位と権力とを失った諸小国の君主の子孫であったろうが、そういうものは反抗の態度をとるだけの実力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかった。こういう君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもっていたらしいイヅモの国造が、完全に皇室の下におけるその国造の地位に安じていたのを見ても、そのことは知られよう。一般の国造や県主は、皇室に近接することによって、皇室の勢威を背景としてもつことによって、彼ら自らの地位を安固にしようとしたのである。


 皇室が武力を用いて地方的豪族に臨まれるようなことはなく、国内において戦闘の行なわれたような形跡はなかった。この意味においては、上代の日本はは甚だ平和であったが、これはその根底に日本民族が一つの民族であるという事実があったと考えられる。


 また皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆ではなかったから、民衆が皇室に対して反抗を企てるような事情は少しもなかった。わずかの皇室直轄領のほかは、民衆の直接の君主は地方的豪族たる国造(及び朝廷に地位をもっている伴造)であって、租税を収めるのも労役に服するのも、そういう君主のためであったから、民衆は己れらの生活に苦痛があっても、その責を皇室に帰することはしなかった。そうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種の誇りをもっていたのではないかと、推測せられる。


 第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国もしくは異民族との戦争には、君主自ら軍を率いることになるのが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として称賛せられ、したがってその勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の情勢によって君主は地位を失うようになる。よし戦に勝っても、それが君主自らの力でなくして将帥の力であったような場合には、衆望がその将帥に帰して、ついにはそれが君主の地位に上がることもありがちである。要するに、異民族との戦争ということが、君主の地位を不安にし、その家系に更迭の生ずる機会をつくるのである。ところが、日本民族は島国に住んでいるために、同じ島の東北部にいたアイヌのほかには、異民族に接触していないし、また四世紀から六世紀までの時代のおける半島及びそれに続いている大陸の民族割拠の形勢では、それらのいずれにも、海を渡ってこの国に進撃してくるようなものはなかった。それがために民族的勢力の衝突としての戦争が起こらず、したがってここにいったような君主の地位を不安にする事情が生じなかったのである。


 ただ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に対する武力的進出が行なわれたので(たぶん、半島の南端における日本人と関係のある小国の保護のために)、それには戦争が伴い、その戦争には勝敗があったけれども、もともと民族的勢力の衝突ではなく、また戦においてもただ将帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいずれの場合でも、皇室の地位には何の影響も及ぼさなかった(チュウアイ天皇の皇后の遠征というのは、事実ではなくして物語である)。そしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周囲におけるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになった。また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての争いがあったが、これは概ねそれに接近する地域の住民の行動に任せてあったらしく、朝廷の関与することが少なく、そうして大勢においては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していったから、これもまた皇室の勢威には影響がなかった。これが皇室の地位の次第に固まってきた一つの事実である。


 第三には、日本の上代には政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このとこからいろいろの事態が生ずる。天皇自ら政治の局にあたられなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことのなかったということもそのひとつである。


 多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかったわが国では、政治らしい政治はほとんどなかったといってよい。したがってまた天皇のなされることは、ほとんどなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。四世紀の末にはじまり五世紀を通じて続いている最も大きな事件は、半島の経営であるが、それには武力が必要であるから、武事をつかさどるオオトモ(大伴)氏やモノノベ(物部)氏やそれについての重要のはたらきをしたのであろう。とくにそのはたらく場所は海外であるから、本国から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、単なる朝廷の事務とは違うこの国家の大事についても、実際においてそれを処理するものは、こういう伴造のともがらであり、したがってそういう家柄におのずから権威がついてきて、彼らは朝廷の重臣ともいうべきものとなった。


 そうしてこういう状態が長く続くと、内政において何らかの重大な事件が起こってそれを処理しなければならぬような場合にも天皇自らはその局にあたられず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになってくる。したがって天皇には失政も事業の失敗もない。これは、一方においては、時代が進んで国家のなすべき事業が多くなり政治ということがなくてはならぬようになってからも、朝廷の重臣がその局にあたる風習を開くものであったとともに、他方においては、政治上の責任はすべて彼らの負うところとなってゆくことを意味するものである。いうまでもなく政治は天皇の名において行なわれはするが、その実、その政治は重臣のするものであることが何人にも知られているからである。このことは、おのずから皇室の地位を安固にするものであった。


 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力をもってその権威と勢力を示さず、また政治の実務には与られなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明らかにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。


 政治的君主が宗教上の地位をももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引き続きであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行なうことであり、そのようなことを行なうところから、ある場合には、呪術や祭祀を行ない神人(神と人)の媒介をする巫祝(神降ろし)が神と思われることがあるのと同じ意味で、君主自らが神としても考えられることがある。天皇が「現つ神」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、言い換えると、天皇が国家を統治せられることは思想上又は名義上、神の資格においてのしごとである、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、すなわち政治的君主としての天皇の地位の称呼なのである。天皇は実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。


 これは、天皇が天皇を超越した神に代わってそういう神の政治を行なわれるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行なわれるとかいうのではないとともに、また、天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びていられるというような意味でいわれたのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。


 また日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇がその日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明らかに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語に天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女に言問交わされた話などのつくられていることによっても、それは明らかである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀礼には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀の終わり頃にはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして国民のために大祓のような呪術えお行なわれたり、いろいろの神の祭祀を行なわれたりすることであったので、天皇が神を祀られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなるしるしである。


 日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇のこの地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜しようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術、祭祀であったので、それについての事務をつかさどっていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついてきたのも、そのためであった。


 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島をへて入ってきたシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。それがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。彼らは皇室のために新来の文物についての何事かをつかさどることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊さと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに浴しようとする態度をとらせることになったのである。


 以上、五つに分けて考えたことをひと口に約めていうと、現実の状態として、皇室は朝廷の権力者や地方の豪族にとっては、親しむべき尊むべき存在であり、彼らは皇室に依附することによって彼らの生活や地位を保ちそれについての欲求を満足させることができた、ということになる。なお半島に対する行動が彼らの間にもある程度に一種の民族的感情を呼び起こさせ、その感情の象徴として皇室を見る、という態度の生じてきたらしいことをも、考えるべきであろう。皇室に対する敬愛の情がここから養われてきたことは、おのずから知られよう。


 さて、こういうようないろいろの事情にも助けられて、皇室は皇室として長く続いてきたのであるが、これだけ続いてくると、その続いてきた事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように思わせたのでもある(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考えが生ずる)。したがってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせねばならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられることになる。もし何らかの事態が生じて(たとえば直系の皇統が絶えたというようなことでもあると)、それに刺激せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめの頃は、皇室や重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められてきた時期であったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのためにつくられたものがもとになっている。


 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の御祖先を宗教的意義を有する太陽としての神とし、皇位(天つ日嗣)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考えと、皇位の永久という観念とが、含まれている。


 なおこの物語には、皇室がはじめからこの国の全土を統治せられたことにしてあるとともに、皇室の御先祖は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の国家の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、ほとんど物語の上にあらわれていない。そして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行なわれたことにしてある。


 物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えていない。民衆を相手にしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊、悪神を掃蕩せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、はじめてつくられたときの物語にはなかったようであり、あとになってつけ加えられたと思われるイヅモ平定の話には、その面影が見えはするが、それとても妥協的・平和的精神が強くはたらいているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話はない。やはりあとからつけ足されたものであるが、スサノヲの命が半島へ渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国づくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというもの、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜をつくり、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明かにあらわれている。


 さすれば、上に述べた四、五世紀頃の状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってもよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれに続く時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。そうしてその根本は、皇位がこの頃まですでに長く続いてきたという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語をつくり出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治・社会的状態に一層大いなる意味があることを、知らねばならぬ。


 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想はこのようにして歴史的に養われまた固められてきたと考えられるが、この思想はこれからのち、ますます強められるのみであった。時勢は変わり事態は変わっても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主たるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。


 六世紀よりのちにおいても、天皇は自羅政治の局にはあたられなかったので、いわゆる新政の行なわれたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められたときは、実は新政ではなかったのである。そして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり、のちのフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なろミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政とても天皇の新政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷のうちにおける摂政、関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権を握っていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官であり、あるいは武人であったが、天皇の新政でない点はみな同じであった。こういう権家の勢威は永続せず、次から次へと変わっていったが、それは、一つの権家がある時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行なわれなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。


 しかし、皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をも踏み出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったので、その権威はいかなる場合にも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、すなわち皇室に精神的権威のあったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立してきたために生じたものである。


 それとともに、皇室は摂関の家に権威ある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威の保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。


 摂関政治の起ったのは起こるべき事情があったからであり、幕府政治の行なわれたのも行なわるべき理由があったからであって、それがすなわち時勢の推移を示すものであり、とくに武士という非合法的のものが民間に起ってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた滅びるようになるとともにその武士によって封建制度が次第に形づくられてきたのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移ってきたことを示すものであって、文化の中心が朝廷を離れてきたとともに日本民族史において極めて重要な事柄であり、時勢の多いなる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことには、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室自らにおいて確信せられていたからでもある。


 もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際の如く幕府を覆そうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、また繰り返して行われたのでもなく、とくに幕府に対しての行動は武士の力に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった(大勢の推移に逆行し、それを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危うくなる。ケンム以後ケンムのような企ては行なわれなかった)。


 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態がわが国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行なわれたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し、時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、それほどの弱者を皇室として尊重してきたことに、重大の意味があるといわねばならず、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。


 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治的権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。それはどこまでも日本の国家の政治的統治者としての権威である。ただその統治のしごとを皇室自ら行なわれなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。


 エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任を受けて政治をするのだという見解が世に行なわれ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的見解にすぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職(征夷大将軍)が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼にすぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行なわれたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。


 さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間続いてきたということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考えが、ますます固められてきたのである。というよりも、そういうことが明らかに意識せられないほどに、それは決まりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語のつくられた時代においては、皇室の地位の永久性ということは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根底ともなりそれを支持している一般武士の思想ともなってきた。それは彼らが政治的権力者となりまた政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。


 ところで、皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度が崩れ、それとともに権家の勢威が打ち立てられてからは、新たに設けられるようになった皇室の私有地民のほかには、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関時代までは、政治は天皇の名において行なわれたけれども、天皇の親政ではなかったので、したがってまた皇室が権力をもって直接に民衆に臨まれることはなかった。あとになって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムの場合の如く、武力をもって武家の政治を覆そうという企ての行なわれたことがあっても、民衆に対して武力的圧力を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位をももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。


 しかし、政治的地位をばもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室観を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてそのいずれにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容れなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。それは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであるとともに、文化が一般に広がって、権力階級のほかに知識層が形づくられ、そしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこから引き継がれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することに努めた。


 しかし、神代の物語のつくられた頃と後世との間に、いくらかの違いの生じた事柄もある。その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的、因襲的に用いられる場合があるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が神の祭祀を行なわれることは変らなかったけれども、それとともに、またそれと同じように、仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、のちに、いつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目に立たなくなったのである。文化と進歩の政治上の情勢とがそうさせたのである。


 その代わり、儒教思想による聖天子の観念が天皇に当てはめられることになった。これは記紀にすでにあらわれていることであるが、のちになると、天皇自らの君徳の修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大切なことは「君主は仁政を行ない民を慈愛すべきである」ということである。天皇の親政が行なわれない限り、それは政治の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行なわれたにしても実現の難しいことでもあった)が、国民自らが自らの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神のまったく違っていた昔の政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆に対して仁慈なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられてきたということは、重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、「天皇が親ら政治をせられなかった」ところに、一つの原因があったのである。自ら政治をせられたならば、もっと現実的な事柄に主なる注意が向けられねばならなかったに違いないからである。


 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世まで続いていたが、その後、次第に変わってきて、文化の中心が武士と寺院とに移り、その果てにはまったく民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変わり文化は進んできたが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在を続けていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられるとともに、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。


 ただこうなっても、皇室とその周囲とにその名残りをとどめている古い文化の面影が知識人の尚古(古事を尊ぶこと)思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけ離れていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何事も昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて、皇室を見るに一種の詩的感情をもってする傾向が知識人の間に生じた。そしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。


 このようにして、神代の物語のつくられた時代の事情のうちにはあとになってなくなったものもあるが、それに代わる新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。


 ところが、十九世紀の中期における世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれかの一つでなくてはならぬことが明らかにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行なわれたのである。


 この維新は思想革命でもなく社会改革でもなく、実際に君主の事を行なってきた幕府の主宰者たる将軍からその権を奪って、それを天皇に属させようとしたこと、いわば天皇親政の制を定めようとしたことを意味するのであって、どこまでも政治上の制度の改革なのである。この意味においては、タイカの改新及びそれを完成させた令の制度への復帰というべきである。ただその勢いの赴くところ、封建制度を廃し、またそれにつれて武士制度を廃するようになったことにおいて、社会改革の意義が新たにそれに伴うようになってはきたが、それとても実は政治上の必要からのことであった。ヨーロッパの文物や思想を採り入れたのは、幕府の施政とその方針とを受け継いだものであるから、これはメイジ維新の新しいしごとではなかった。維新にまで局面を推し進めた力のうちには、むしろ頑冥な守旧思想があったのである。


 さて、幕府が消滅し、封建諸侯と武士とがその特殊の身分を失って、すべての士民は同じ一つの国民として融合したのであるから、このときからのちは、皇室は直接にこの一般国民に対せられることになり、国民ははじめて現実の政治において皇室の存在を知ることになった。また宮廷においても新たにヨーロッパの文物を採用せられたから、同じ状態にあった国民の生活とは、文化の面においてもさしたる隔たりがなくなった。これはおのずから皇室と国民とが親しく接触するようになるよい機会であったので、メイジのはじめには、そういう方面に進んできた形跡も見られるし、天皇親政の制が肯定せられながら世論政治・公議政治の要求の強くあらわれたのも、またこの意味を含んでいたものと解することができる。ヨーロッパに発達した制度に倣おうとしたものながら、民撰議院(衆議院)の設立の議には、立憲政体は政治を国民自らの政治とすることによって国民がその責に任ずるとともに、天皇を政治上の責任のない安泰の地位に置き、それによって皇位の永久性を確実にし、いわゆる万世一系の皇統を完からしめるものである、という考えがあったのであえる。


 しかし実際において政治を左右する力をもっていたいわゆる藩閥は、こういう思想の傾向には反対の態度をとり、宮廷その他の諸方面に存在する固陋なる守旧思想もまたそれと結びついて、皇室を国民とは隔離した高い地位に置くことによってその尊厳を示そうとし、それとともに、シナ思想にも一つの由来はありながら、当時においてはやはりヨーロッパから採り入れられたものとすべき、帝王と民衆とを対立するものとする思想を根拠として、国民に対する天皇の権力を強くし、政治上における国民のはたらきをできるだけ抑制することが、皇室の地位を強固にする道であると考えた。憲法はこのような情勢の下に制定せられたのである。そしてそれとともに、同じくヨーロッパの一国から学ばれた官僚制度が設けられ、行政の実権が漸次その官僚に移っていくようになった。なお、メイジ維新によって幕府と封建諸侯とから取りあげられた軍事の権が一般政務の間に優越な地位を占めていた。


 これらのいろいろの事情によって、皇室は煩雑にして冷厳なる儀礼的雰囲気のうちに閉ざされることによって国民とはある距離を隔てて相対する地位に置かれ、国民は皇室に対して親愛の情を抱くよりはその権力と威厳とに服従するように仕向けられた。


 皇室の仁慈ということは、絶えず説き示されたのであるが、儒教思想に由来のあるこの考えは、上に述べた如く現代の国家と国民生活との精神とは一致しないものである。そしてこのことと並行して、学校教育における重要なる教材として万世一系の皇室を戴く国体の尊厳ということが教えられた。一般民衆はともかくもそれによって皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになったが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事実の如く説くことによってなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであった。皇室と国民との関係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語をもって表現せられた君臣間の道徳思想を当てはめようとしたのも、またこういう為政者のしわざであり、また別の方面においては、宗教的色彩を帯びた一種の天皇崇拝に似た儀礼さえ学校において行なわせることにもなったが、これらのいずれも、現代人の国家の精神また現代人の思想と相容れぬものであった。


 さて、このような為政者の態度は、実際政治の上においても、憲法によって定められた輔弼の道を誤り、皇室に責任を帰することによって、しばしば累をそれに及ぼした。それにもかかわらず、天皇は国民に対していつも親和の心を抱いていられたので、何らかの場合にそれが具体的の形であらわれ、また国民、とくにその教養あり知識あるものは、率直に皇室に対して親愛の情を披歴する機会の得られることを望み、それを得た場合にそれを実現することを忘れなかった。「われらの摂生殿下」というような語の用いられた場合のあるのは、その一例である。そうして遠い昔からの長い歳月を経て歴史的に養われまた固められた伝統的思想を保持するとともに、世界の情勢に適応する用意と現代の国家の精神に調和する考え方によって、皇室の永久性を一層明らかにし、一層固くすることに努力してきたのである。


 ところが、昭和に至って、いわゆる天皇制に関する議論が起こった。それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに付随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれを裏づけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如く言いなし、それによって、軍部のほしいままなしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来がある。


 アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてからのちは、軍部のこの態度はますます甚だしくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をも捨てるのはすべて天皇の御意である、ということを、ことばを替え方法を替えて絶間なく宣伝した。そしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化するとともに、そこに国体の本質があるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。


 しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝は彼らの私意を覆うためであったことを明らかに見破ることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべて天皇の故である、という考えがそこから生まれてきたのである。昔からの歴史的事実として天皇の親政ということがほとんどなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の、上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然の成り行きともいわれよう。


 こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗も手伝っているようである。また、これからのちの日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論の道筋にも、幾多の肯いがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にもまた、何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背いている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているが如き感じを人に与えることさえもないではない。もしそうならば、その根底にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考え方が存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質を理解せざるものである。


 日本の皇室は日本民族の内部から起こって日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力をもって、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。言い換えると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。


 ところが、現代においては、国家の政治は国民自らの責任をもって自らすべきものとせられている。いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行なわれることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。


 国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民のうちにあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民とともに永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民とともに万世一系なのである。民族の内部から起こって民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とはおのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。


 また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷してきても、その変遷に順応せられた皇室は、これからのちにいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位にいられることになろう。ただ、多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、したがってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し、横暴または無気力なる為政者を排除し、また職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治を打ち立てることが出来ず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、ついに彼らをして、国家を窮地に陥れるとともに、大いなる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民自ら省みてその責を負うとことがあるべきである。


 国民自ら国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民とともにせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しく、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくの如く皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大いなる発露でもある。



(津田左右吉)