< 伝承 神聖神話 >




新しい社会の形成にさいして、もっとも重要な課題は、国民統合の理念をどのように設定するか、いかなる国家目標を掲げるか、またそれに向かってどのように大衆を馴致してゆくか・・・言いかえれば、上からの新しい文明モデルの創出、国家規模での広汎な<同意の体系>の組織という課題である。これこそが、国権派のかかえていた最大の難問であった。すなわち、維新の諸改革を強行しつつあった新政府は、まず旧幕府勢力の社会的影響力を一掃し、新たな国家的理念=体制イデオロギーを打ち出して、国民大衆を思想的、道徳的にも統治していかねばならなかった。


 その場合、その統治理念は、どのような社会思想といかなるイデオロギー体系に依拠すべきか・・・これは新政府権力にとっても、なかなかの難問であった。幕藩体制の支配的イデオロギーであった儒教倫理、あるいはまた、民衆の中に深く滲透してはいたが腐敗の極みに達していた仏教思想に依拠して、新しい国民統合の理念を打ち出すことはとうてい不可能であった。むしろ旧幕藩権力の支柱となっていた仏教教団の権力をそぎ落とすことが、当面の急務であった。


 さりとて、西洋の近代民主主義と一体となっているプロテスタンティズムや、ローマ教会の世界的ヒエラルヒーを背後にもっているカトリシズムを積極的に受け入れていくことは、いろんな点で危険であった。上からの中央集権的な政府権力の創出を意図していた新政府の構想からしても、とうてい容認できない路線であった。キリシタン禁制を解けば、すでに三百年前にその先例を見たように、民衆のあいだに急速に滲透していくだろう。しかし、そのような西洋風道徳倫理の流行は好ましくないと政府は判断したのである。


 そして、民権派の主張するように、近代市民社会の編成原理である社会契約論的な民主主義思想をもち込むことは、国権派の支配体制を維持するためにはとうてい認められないことであった。


 そこで選択されたのが、国家神道を再確立し、政教一致の天皇制によって国民教化を強行していくコースであった。新政府部内での尊王攘夷派の主導のもとに、1867年の<王政復古>の大号令の直後からその路線が実行に移された。神祇官・大政官制を復活し、古神道の姿に復元すべく神仏分離の令を発した。


 新帝即位後は、この神道国教政策はさらに強化された。近代社格制のもとに行政による神社の掌握が徹底すると、”宗門人別帳”にかわって”神社氏子制度”による近代的戸籍の編成をもくろんだ。1872年(明治5年)には神祇省を廃止して教部省を設け、その教導職に対して、「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨遵守」の三ヶ条の教憲を国民教化の原則として提示した。


 このようにして、幕府打倒の対抗理念としてもちだされていた”尊皇論”をそのままいただき、それを新たなナショナリズム生成の核に据える路線がとられた。天皇を家長とし臣民を赤子とする<家>の原理に、文明開化という衣裳を着せ、それを統治体系の基軸におこうと考えたのである。


 水戸学を中心とした尊皇論は、『記』『紀』神話を歴史的事実として認め、万世一系の天皇制をいただく日本の国体を「万邦無比」のものとしてその優越性を説いていた。そして、皇祖神アマテラス以来の血統を保持した天皇こそ、この豊葦原中国を統べるべき君主であると主張した。この尊皇論は、幕府打倒に決起した一部の武士の間では広がりつつあったが、権力闘争の埒外におかれていた一般民衆の社会意識の中までは浸透していなかった。


 ところが、西欧列強による軍事的侵略の危機がはっきり見えてくるにつれて、攘夷論が急速に高まっていった。西欧の軍隊のみならず、その思想や文物の上陸を阻止して日本を守ろうという攘夷の主張は、しだいに尊皇論と結びついていった。そして、その危機に十分に対応することのできぬ幕府にとって代わる、強力な国家権力が必要であるという認識がしだいに広がっていった。それは新しい国家意識の形成という方向に動き、いわゆる「尊皇攘夷」派として急速に組織されていった。


 開国維新の過程で、蒙昧で時代遅れのイデオロギーであった攘夷論は、しだいにその影響を失っていったが、尊皇論は生き残った。つまり、アヘン戦争(1819〜42年)の衝撃をきっかけとして、しだいに広まっていったナショナリズム意識が、他に有力な対抗理念がないままに、そのまま尊皇論尊皇論に横滑りしていったのである。そして急転直下、<王政復古>という形で明治新国家が誕生すると、尊皇論がたくみに換骨奪胎されて新国家の中枢理念としてよみがえったのである。


 明治天皇(1852〜1912年)は15歳で即位したが、その晩年には大帝と呼ばれるようになった。外に向かっては日清戦役・日露戦役・韓国併合と帝国主義的膨張をなしとげ、内にあっては日の神アマテラスオオミカミの皇統をひく”聖なる王”として国民統合のシンボルとなり、ついに大帝と呼ばれるようになった。その在位期間45年・・・この短い期間で、アジア最大の強国、「万邦無比の国体」を自称する大日本帝国の大帝となった。


 たしかに明治天皇は、王個人の英雄的カリスマ性と、「神武創業以来」の皇統という親和的カリスマ性を見事にドッキングさせて<大帝>と呼ばれるようになった。


 カリスマとは、神から授けられた呪術的な霊力、あるいはそのような異常な霊力を身におびた超自然的存在のことである。そして世襲的カリスマ性とは、そのような超自然的霊力がずっと受け継がれて、世俗とは隔絶された至高かつ神聖なモノとして存在していることをいう。


 ヤマト王権は、改めていうまでもなくこの列島の先住民族を制圧して君臨した征服王に外ならなかったが、支配下の民衆に対しては、自らが皇祖霊を受け継ぎそれを祀る祭祀王として登場していたのである。血にまみれた領土奪取と悲惨な先住民族征服の記録は、民衆の目から隠されていた。先住民族抑圧の歴史は、『記』『紀』においては、神代篇の「天孫降臨」神話、「神武東征」神話として巧みに粉飾されていたが、この近代化革命のさなかに再び恭しく語り出されたのであった。


 カリスマ的支配の大きい特徴は、そのような神聖な王権のもつ霊力に対して、支配されている民衆が情緒的に帰依し、あたかも神に服するかのように心服するところにある。そのためには、外からこの国土にやってきて武力で王座に着いた征服王であるという歴史的事実は、どこまでも隠蔽しておかねばならなかった。


 もちろん、そのようにして世襲的カリスマ性をずっと持続していくことはなかなかむずかしい。そのためには、いろいろの道具立て、パフォーマンスが必要である。すなわち、先にみたような天孫降臨神話の創出、それを裏付けるための神秘的儀礼、カリスマを象徴するシンボル(三種の神器)、さまざまの禁忌(タブー)・・・そういったもので麗々しく王権の実体を粉飾していかねばならない。


 このようにして古代国家における天皇は、聖なる皇孫として君臨したのであるが、<王政復古>にさいして、再び神話にもとづく儀礼やパフォーマンスを大々的に再構築していかねばならなかった。


 そのようなカリスマ性を継承するためには、皇祖以来の霊力(マナ)を身につけること、すなわち、死んだ旧帝から即位する新帝への≪天皇≫の転移がもっとも重要な儀礼となる。そういうモノモノしい儀礼のもとで、タカミクラに鎮座して人民(オオミタカラ)に新たに皇統を継いだ天皇であることを宣言するのだ。代替りごとにそういう儀式を行なわないと、民衆の前に顕示されるべきカリスマ性はしだいに失墜してしまうのだ。


 戦前の「登極令」でいえば、践祚の儀、即位の儀、大嘗祭、改元・・・以上の四つである。なかでも天孫降臨神話に出てくる真床覆衾によって、新諦への天皇霊の転移がたしかめられる秘儀である大嘗祭が、もっとも重要な皇位継承儀礼となる。これを執り行なえなかった新帝は、古くから”半帝”であるとみなされたのである。


 明治天皇は、1868年8月に即位式を行なう。そのさい地球儀を紫宸殿の高御座の前におき、天皇が王座を離れて日本国の部分に三度沓をあてた。誰が考案したのか知らぬが、新時代にふさわしい秘儀として演出したのであろう。そして大嘗祭は、1871年11月に挙行された。明治天皇は古式にのっとって、天皇霊=神威を身に帯びて維新の舞台に登場してきた。そして、黒船以来の「神国受難」の苦しい時代をなんとか乗り切ることに成功した。


 かくしてこの天皇は、「万邦無比の国体」を全世界に宣揚した≪現人神≫として崇められるようになり、ついに大帝と称せられるようになった。このような大帝の突然の出現、その手による「大日本帝国」の形成が、アジア史上のみならず、世界史上でもあまり例を見ない歴史的大ドラマであり、世紀の大芝居であったことはたしかであろう。神聖天皇の復古劇は、かくして当初の予想をこえた大成功裡にその第一幕を閉じたのであった。


 だが、歴史の表層を一皮剥げば、この大ドラマ、大芝居の楽屋裏がすぐ見えてくる。改めて言うまでもなく、日本だけではなくアジア各地の多くの民衆の膏血を絞り、その汗と血の上で明治天皇紀の45年にわたる大ドラマが演じられたのである。


 ところで、世紀のビッグ・イベントであったこの一大≪天皇劇≫の製作者は、一体誰であったのか。一口で言えば、この大芝居のプロデューサーは「有司専制」と呼ばれた薩長藩閥を中心に、明治新政府の実権を掌握した一握りのグループであった。そして、この大ドラマの憲法制定前後からの総監督が、伊藤博文(1841〜1909年)であったことはよく知られている。


 だが、その舞台のカゲには、いろんな道具立てによってこの大芝居を進行させた本当の演出者がひとりいたのである。それは、誰であったか。伊藤の指揮下で動いた実際の舞台監督、それは井上毅(1844〜95年)であった。


 井上は熊本藩士の出で、1870年に大学南校中舎長となり、72〜73年にフランスに留学して司法制度を学んだ。当時としては西洋事情にもよく通じている数少ない研究者肌の官僚であったが、同時にまた漢籍や日本の歴史・古俗にも詳しかった。頭の乾涸びた旧尊皇派とは違って、西洋社会に通じた開明派であり、同時に中国律令制の思想的基礎を築いた韓非子の統治術を規範と考える能吏であった。法制局長官、枢密院書記官長、枢密顧問官を歴任して、大転形期の新政府の実質上の舵取りとなった。


 オモテでは古代律令国家の新版と見まがうような神聖天皇劇を進行させながら、そのウラ側では着々と「文明開化」「富国強兵」という近代化路線を推進しえたのは、彼の采配によることが大きかった。明治14年の政変でカゲで参謀として大活躍し、憲法制定にさいしては立案起草のリーダーとなった。そして、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)といった近代民主主義に逆行する憲法を、民権派の発言を封じ込めて抜打ち的に制定してしまった。


 井上毅の二刀流使いとでもいえる懸命の演出によって、はじめてこの世紀の大芝居が進行しえたのである。(『大日本帝国憲法』、『皇室典範』の実質的起草者は井上毅である。その国民的啓蒙版であり実践的道徳書ともいうべき『教育勅語』も、元田永孚と井上の合作であるが、元田の儒教的君主論を抑えて実際に主導したのはいのうえであった。)井上は、新国家の統治体系として律令的皇統観念を基軸とする国家神道体系を構築し、そのもとで<脱亜入欧>という独特の近代化路線を構築したのだ。緊迫する極東情勢をにらみつつ、新しい政策を次々と積極的に打ち出していった。


 新しい政策とは何か。地租改正など一連の経済政策による上からの強行的な資本主義化、学校制度を整備し近代的労働力を確保していくこと、徴兵令によって軍事力をたくわえ、きたるべき海外進出にそなえること、等々であった。


 このような両面作戦を巧みに主導したのが伊藤博文・井上毅のラインだった。ゴチゴチの尊皇派では、とうていこのような戦略構想のもとでの大芝居を打つことはできない。つまり、明治維新の当初は、≪現人神≫を上にいただく国家の統治形態と、急速な近代化を計ろうとするその国家政策の内容とは、一見したところ相容れないほど矛盾していたのだ。しかし、そのことは、新政府首脳もよく承知していた。その真の狙いは、あとでみるように天皇の神威を借りて、当然噴き出てくるであろう反政府運動を未熟に叩き潰し新路線を強行するところにあった。その決め手として用いたのが「不敬罪」「大逆罪」という刑法規定であった。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という時代錯誤的な憲法条項が、この刑法を支える決め手として第三条におかれたのはそのためである。


 一口に言えば、近代化の社会的過程で、天皇制という伝統的な統治システムの活性化、つまり、その再生利用を最大限に有効に行ない、新生天皇を国民統治のシンボルとして、新しい国権的統治システムの中にはめこんだのであった。


 江戸時代では、多くの民衆は天皇の名を知らなかった。その時の将軍や有名大名の名は知っていただろうが、現存の天皇が何天皇であるかを知っていたのはせいぜい地元の京都であって、ダイリが何ものであるかを知っていた民衆はごく少数であろう。


 一握りの上層身分や公儀とかかわりのある特別の職能を持つ者を除いては、一般民衆は、天皇とはなんのかかわりもなかった。辺境の地に住む人々は、天皇の名はもちろん、その存在すら知らなかったであろう。営々と働きなんとか生き抜いていかねばならぬ下積みの民衆にとって、天皇の存在は必要事でもなければ必然事でもなかった。天皇を”有難き神様”として崇めねばならぬ根拠は、なにひとつなかったのだ。


 ましてやアマテラスオオミカミ、ニニギノミコト、ジンムといってみたところで、民衆にはなんの因縁も所縁もなかった。江戸時代の「伊勢まいり」にしても、農業神である外宮のトヨウケノカミに手をあわせることはしても、内宮のアマテラスオオミカミ、その御神体である八咫鏡を拝まねばならぬ理由はどこにもなかったのだ。そもそも室町時代まで、一般庶民は伊勢神宮に詣でることすら禁じられていたのである。


 この「伊勢まいり」は、民衆のホンネのところでは上方めぐりをかねた一生一回の大旅行であった。その最大の楽しみは、伊勢古市の遊郭での大散財と芝居見物であった。伊勢まいりの宣伝のために全国を走り回ってオルグした伊勢の御師たちにしても、いちおうは神道という宗教的な外衣をまとってはいたが、その実態は、今流に言えば観光業の草分けであった。伊勢信仰にしてもそのような実態であったから、アマテラスオオミカミの皇統を霊験あらたかな神様と仰ぐような慣習は、民衆の間にはあまりなかった。


 天皇は、江戸時代ではダイリ(内裏)、キンリ(禁裏)と呼ばれたが、外向けにはミカド(帝)と呼ぶこともあった。明治維新後でも、皇上・皇帝・聖上・至尊・主上などさまざまで、民衆向けには天子・天子様という用語がおもに用いられた。さまざまの呼称が混用されたということは、新政府の実権を握った有司専制グループにしても、最初の間は新しい王権の性格について、はっきりしたイメージを持っていなかったことを物語っている。


 倒幕派の志士たちが、天皇を≪玉≫という隠語で呼んだことはよく知られている。木戸孝允より品川弥二郎あての書簡では、次のようにはっきりと玉と書いている。「甘く玉を我方へ抱き候御儀、千載の一大事にて、自然万々一も彼手に奪れ候ては、たとへいか様の覚悟仕候とも、現場の処、四方志士壮士の心も乱れ、芝居大崩れと相成・・・」(慶応3年10月22日)。玉は「ギョク」とも「タマ」とも読める。「ギョク」は、邪悪を払う霊力、生成の呪具として用いられた光沢の美しい石である。「タマ」は、術策の手段、計略の道具をあらわす俗語である。この両方の意味を含んで天皇を≪玉≫と呼んだのであろう。それにしても、「芝居大崩れ」という表現が興味深い。≪玉≫としての天皇をいかにうまく担ぎこなしていくかが、この大芝居の成功の秘訣であると考えていたのだ。もちろんこの場合の「こなす」は、「自分の思うようにうまくあつかう」ということである。


 天皇という呼称が確立していくのは、1880年代に入ってからである。元田永孚の『国権大網』(1880年)がそれを示唆し、『帝国憲法』によって、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、正式に天皇という呼称が定められた。


 この『帝国憲法』と『皇室典範』の規定(1889年)によって、<王権復古>の大号令が目ざしたものがようやく実現したのである。その間、約22年が経過した。自由民権運動をはじめとするさまざまの反政府運動があったが、1880年の公布した刑法ではじめて不敬罪を法文化し、天皇の神権についての批判を禁じたのが大きい決め手になった。



(沖浦和光)






「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない」



(昭和天皇)