< 在家仏教者たち >




 我が国民の信仰の経路此の如きを以て、過去の日本人の心的生活を見る時、何れの人も多少とも仏教信仰の情を有せざるはなく、仏教渡来後一千三百年の間に現われたる、すべての日本人は皆此実話の資料ならざるはないともいい得るので、ここに挙げたるものはその中特に著名なるもの、若しくば歴史上著名の人物に就いてその行実を叩いたのに過ぎないので、これを以て在家仏教信者の全般を尽せりと見ることなきを望む。

 尚ここに一言すべきは先にも言う如く我が国民の信仰は早く神仏を混淆したるが故に、篇中記載の行実にして八幡大菩薩といい、天満大自在天神といい、熊野権現といい、住吉明神といい、今日の眼を以てすれば仏教信仰としては異様の感なき能はざるものあるも、当時にあっては、寧ろ仏教に重きを置きたる信仰にしてその間渾然融合せられつつあったものなることを予め了解せられんことを望むのである。

 題して実話というも、何れまでを実とし、何れまでを虚とするかは明白ならず、正史は多く信仰の事歴を載せず、寧ろ多くの資料を雑著に求めざるべからざるが故に虚実明らかならず、甚だしきは荒唐無稽の伝説にあらざるかを疑わしむるものなきにあらざるも、この伝説を産み出せる民族心理には明らかにその時代の進行状態を反映せしむるもの少なからざるを以て、正史に遵拠せるは勿論なりといえども、伝説もまた軽視し難きを以て、成るべくその時代に近き古人の述作に基き、一々その出所を明記して之を収め、その文章の如きも成るべく原文を保存することとして毫も著者の作意の加えられざることを明らかにした。

 集めて在家篇といふも、中には初め在家にして後、出家となれるものあり、これらの中各宗篇に収め難きものまた在家中の行動の著名なるものは彼の入道といい、法師と称し名は法名に改めつつ在家とその行動異らざるものと共に皆これを本篇に収めることとした。在家の名に即してその杜撰を咎むるなくんば幸いである。

 劈頭に掲げたる聖徳太子は当然「皇室篇」に入れるべきものであるが、我が国在家仏教は範を聖徳太子に取り、その信仰の源頭悉く太子に発したるを以て、敢えてこれを在家篇に収め、他の各宗篇に於いてその宗祖を第一に叙するが如く、本篇には在家仏教の祖というべき太子をその初めに掲げ、その帰趣を知らしむる便ならしめ、在家仏教の名に最も因縁ある優婆塞の名を以て呼ばるる役の行者如きは当然本篇の中に収むべきものなるも、役の行者は後世修験道の祖と云われ、この一宗は天台、真言二宗の高僧によって発展を遂げ今また現にこの二宗に分属するが故に、ここには之を省きて他篇に属せしむることとした。一に説述の便に基く、これまた諒恕あらんことを祈る。

 在家仏教の裏面には出家たる高僧の之を啓発し指導せらるるあって表裏相応するが故に本篇に記述せる在家人の中には出家を叙せる他の諸篇の中に散見せらるるものあるべきも、もと主客その観察を異にし、筆者またはその人を同うせず請うその重複する所あるを咎むるなく、左看また右看、以て偉人の面目を窺うの資に供せられんことを望む。




奈良時代


聖徳太子  秦河勝  鞍作部ノ鳥  藤原鎌足  藤原不比等  大神高市麿  越智直  佐伯今毛人  藤原良継  和気清麿  淡海三船  山上憶良  紀臣馬養  獵夫馬之允



平安時代(前期)


坂上田村麿  藤原種継  和気廣世  滋野貞王  藤原良相  藤原伊勢人  良峰宗貞  藤原山蔭  藤原基経  源光  都良香  菅原道真  巨勢金岡  小野道風  藤原仲平  藤原忠平  大江維時  藤原師尹  藤原在衡  菅原輔正  大江朝綱  慶滋保胤  蔵人宗正  藤原伊尹  源兼明  大江匡衡  藤原義孝  藤原実ョ  藤原道隆  藤原道長  大江定基  藤原時重



平安時代(後期)


源経基  源満仲  藤原保昌  源ョ信  源ョ義  源義家  大江以言  大江匡房  源顕基  藤原成道  平貞盛  藤原ョ通  藤原師実  平維茂  源俊房  三善為康  藤原師通  藤原敦光  平忠盛  平清盛  平重盛  平康ョ  平貞能  難波経遠  平忠度  平維盛  平重衡  源義経  藤原秀衡  熊谷直実  遠藤盛遠  佐藤憲清



鎌倉時代


源頼朝  北条時政  佐々木定綱  藤原兼実  角張成阿弥  高階保遠  藤原兼隆  内藤盛政  宇都宮頼綱  葛西清重  藤原俊成  藤原定家  藤原家隆  宅磨澄賀  藤原隆信  藤原信実  運慶  湛慶  源実朝  藤原公経  藤原道家  安達景盛  鴨長明  藤原為家  北条秦時  北条重時  北条時頼  北条実時  北条経時  波多野義重  加藤景正  庶民平太郎  北条時宗  四条頼基  比企能本  富木胤継  川名彌三郎  工藤吉隆  遠藤為盛  池上宗仲  北条貞時  中条七郎



南北朝時代


藤原資朝  藤原俊基  藤原師資  源具行  菊地武時  藤原藤房  楠木正成  新田義貞  菊地武重  人見恩阿  源親房  足利尊氏  足利直義  足利義詮  小笠原貞宗  吉田兼好  村上義弘



室町時代


足利義満  細川頼之  斯波義将  今川了俊  足利基氏  蜷川親富  足利義持  足利義教  春王安王  上杉憲実  一條兼良  足利義政  相阿弥  世阿弥  珠光  紹鴎  土佐光信  小栗宗丹  狩野元信  三條実隆  細川勝元  千葉胤直  東常縁  宗示祗  宗長  山崎宗鑑  太田道灌  北条早雲  三浦義同  酒井定隆  大内義興  大内義隆  朝倉敏景  島津忠良  上泉信綱  塚原卜伝



安土桃山時代


武田信玄  上杉謙信  里見義堯  北条氏綱  毛利元就  大友宗麟  龍造寺隆信  織田信長  豊臣秀吉  蒲生氏郷  千利休  島津義久  島津義弘  島津家久  新納忠元  長曾我部元親  細川幽斎  加藤清正  福島正則  前田利家  黒田孝高  黒田長政  小早川隆景  鍋島直茂  伊達政宗  直江兼続  細川忠興  蜂須加家政  山内一豊



江戸時代


徳川家康  板倉勝重  角倉了以  本阿弥光悦  徳川家光  烏丸光廣  宮本武蔵  柳生宗矩  酒井忠勝  狩野探幽  徳川家綱  徳川頼宣  千宗旦  鈴木正三  徳川光圀  池田光政  細川忠利  伊達宗重  河村賢瑞  杉山和一  松尾桃青  内藤丈草  惟然房  小西来山  柳澤吉保  大石良雄  近松門左衛門  井戸平左衛門  紀伊国屋亦右衛門  石田梅巌  売茶翁  亀田窮楽  木村蒹葭堂  柳澤淇園  池野大雅  山梨平四郎  紫笛翁  市川柏筵  市川白猿



幕末時代


細川重賢  徳川治貞  上杉治憲  松平定信  津軽信明  手島堵庵  中澤道二  俳人蕪村  俳人一茶  山岡浚明  瀧夢輔  平秩東作  大国屋伝兵衛  圓山応挙  中村仲蔵  葛飾北斎  二宮尊徳  松平冠山  松居久次郎  滝沢馬琴  蒲生君平  吉田松陰  井伊直弼  白井亨  近藤勇  新門辰五郎  石橋壽閑  荒木又六  九瀬孫之丞  形屋五左衛門  神谷備後  安芸の五助  越後の忠次郎



明治時代


岩倉具視  西郷南州  山岡鉄舟  勝海舟  高橋泥舟  伊達自得  高橋好雪  三谷謙翁  菊地容斎  浅田宗伯  松崎直臣  品川彌二郎  三遊亭圓朝  鴻雲爪  島尾得庵  伊藤博文  乃木希典  島田蕃根  渡邊國武  三浦梧楼  大内青巒  河瀬秀治





(加藤咄堂)







< 仏教と日本女性 >



 仏教では、女性を如何に見るか。これは極めて簡単なる問いであるが、然し今これに答えて完全なる説明を加えることは、決して容易ではない。


 釈迦牟尼仏が、伽耶の畢波羅樹の下で発悟したる心境は、四十余年の間、恒河の地方を経行し顕説したのである。而して仏が涅槃に入って後、その一代の偉大荘厳なる教化は、諸弟子に依って受持伝承せられて、自ら一団の思想的勢力となり、漸く年所えお経て、益々勢力を加え、その内容が開展することとなってのである。


 そこで仏教は、ヒマラヤ山を中心としたる四方の地域に亘り、幾多の諸民族の思想事実となり、精神文明となっている。それが極めて複雑なる変遷をなしているのである。

 現に仏教の文献は、極めて豊富であって、梵文、巴利文、西蔵文、蒙古文、支那文、日本文等に依って記載せられている。その一面に、これ等の関係ある諸民族の思想事実を保護し、精神文明を表現しているのである。


 仏教の経律論の三蔵は、仏教の教義を詠嘆的に、規範的に、弁証法的に記載したものであるが、その浩瀚なる部冊が、決して一時に成立したものでなく、歴代の仏教の思想家が継承したる事業の集積したものであると見らるるのである。

 それで今日仏教と云うは、二千余年に亘って、幾多の仏教の思想家の事業を総合したるもので、極めて多面的なる内容が重積せられている。これをよく領會することなく、単にその一部分を挙げて説明すれば、必ず他の部分から破綻するのである。それで一仏教と云いながら、しばしば説明するところが多いに相異することとなる。


 仏教の経律論の三蔵は、支那文のものが早く我国に輸入せられた。これが我国の仏教の基本である。然し我国の仏教は、我民族の思想事実となり、精神文明となったのである。ここに我国の仏教が成立している。これは今日我民族が直面している目前の事実である。

 仏教組織学からは、印度、西蔵、支那等の仏教を、総合的に研究すべきである。然し今日殊に注意して我国の仏教を解釈すべきである。それが如何に発達したるか、如何に活動したるか、大いに説明すべきである。

 我国の仏教が一千余年に亘って、我民族の思想事実となって発達し、精神文明となって活動した。これは今日何人も首肯していることである。而してその間に我国の仏教が成立していることを藐視してはならぬ。


 嘗て一女性が、我国の女性の文化を論じ、上古の女性は大いに活発であって、男性に異なることなく、活動したものであるが、一たび仏教が渡来して、女性を罪悪視し、侮蔑し、貶斥した。その結果、我国の女性の元気が退嬰し、萎縮し、遂に全く我国の女性の文化の発達を阻害することとなったと云い、自分はこれを国史の講義で聞いたと付け加えたのである。余はこの女性が言うところを聞いて、大いに驚いたのである。これは決して国史の事実でない。我国の女性の文化は、大いに論ずべきことがある。然し仏教がその発達を阻害したものでなく、大いに激成したものである。これが国史の事実である。実際我国の女性の文化の発達は、仏教を離れて説明せられない状況にある。


 我国の文化の発達は大いに由来するところがある。然しその完全に文化時代に入ったのは、飛鳥時代である。支那大陸の諸民族の動揺に依って、漢民族が黄河の流域から、南方揚子江の流域に遷って、文化を建設した六朝時代になって、我国は漸く盛んに支那大陸の文物を輸入し、我民族は始めて文化の建設に努力することとなった。これが即ち飛鳥時代である。当時仏教は、支那大陸の文物の主要なるものであった。我国は、これを輸入し、文化の建設の主要なる成分としたものであることは、極めて明白なる事実である。

 仏教の経律論の三蔵は、支那文のものが解釈し、講説せられ、その教義が、我民族の思想を訓育し、教練したことは、我国の文化の建設に、重大なる指導原理を付与することとなったものである。


 飛鳥時代に文化の建設に努力した第一人者は聖徳太子である。太子は支那大陸の文物を受容し、仏教儒教を研鑽したのである。殊に仏教は、六朝時代に行なわれたる大乗経の意義を領會して顕揚したもので、法華、維摩、勝鬘の三部経を講説し、註疏を製した。この註疏は実に我国民の間に出されたる最初の著書である。ここに我民族は思想的精神的の活動を開始することとなったもので他面より見れば、ここに我国の仏教の成立が発祥するのである。

 法華、維摩、勝鬘の三部経の中、勝鬘経の説意は、全く女性を中心としたものである。太子がこの経を講説し註疏を製したことは、我国の女性の文化の建設に、指導原理を掲揚したものである。それで我国の女性の文化を論ずるに当たっては、まづこの一大事実を説明するべきである。


 勝鬘経は、印度のコーサラ国の波斯匿王の女で、阿踰闍国王の妃である勝鬘夫人が、父王並びに母后末利夫人の勧めに依って、釈尊の教化を受け、自ら誓って正法を摂受し、これを一切の衆生に宣伝し、自ら身命資財を捨てて護持せんとするのである。その強い堅い意気は、決して男性女性を以て分かつべきものがない。

 釈尊は、夫人の三大願を讃嘆し、奨励したもので、決して夫人の女性たるを以て軽視しているものでない。一切の菩薩の諸願は、皆夫人の三大願に摂入するものであると説示している。


 勝鬘経の説く所は、我国の女性が、最初に受けた教訓であり、指導である。ここに我国の女性の文化の出発点がある。

 推古天皇は女性にましまして勝鬘夫人の精神に感激せられたことでなければならぬ。夫人が永劫に正法を摂受し、これを一切の衆生に宣伝し、自ら身命資財を捨てて護持せんとするは、天皇が女性にましまして、三宝を興隆し、諸寺を造営し、殊に四天王寺に施薬療病等の四院を創設せられたことは、夫人の三大願を実現せんとせられたものであろう。史実の内面は思想である。而して文化的思想は必ず指導原理に依って活動するものである。ここに文化的史実の意義がある。


 我国の原始時代の女性は、神話に依って想像せられている。然し文化時代の女性は、史実に依って説明せられている。即ち飛鳥時代以来、漸次に女性の文化が成立し、発達している。奈良平安時代の女性の文化が燦然として光彩を放っている。鎌倉時代以来女性の文化は動揺している。一面より見れば、武家の勃興によって、女性の社会的位置が変転したことは事実である。然し他面より見れば、女性の文化は堅実性を帯びて、精神的となっている。決して我国の女性の元気が退嬰し、萎縮しているものと云えない。

 要するに、我国の女性の文化的社会的の境遇位地は、自ら変遷がある。然し各時代を通じて、女性は常に活動している。

 仏教は男性女性を両分して見ている。これはもとより当然の事実を見ているのである。

 然し大乗経の意義より見れば、男性なるが故に尊く、女性なるが故に卑しとすべきものでない。草木国土が悉く仏道を成ずるものである。男性女性共に同じく仏教を具している。本来尊卑のあるべきものでない。

 我国の仏教は、我国の女性の文化の成立し発達する基本となり、勢力となっている。これが歴代の事実に依って証明せらるるのである。

 一面我国の仏教は我国の女性の努力に依って興隆している事実を見逃してはならぬ。即ち我国の仏教の成立には、歴代の仏教女性の位置が確保せられているのである。






飛鳥奈良時代


善信尼  法明尼  都藍尼  法如尼(中将姫)  利苅女 法均尼(和気清麿の姉)  舎利尼



平安時代


如意尼  衣縫金継の女  妙冲尼(橘逸勢の女)  真頼の祖母尼  小松天皇の御孫尼  池上寛忠僧都の妹尼  如藏尼  「然法師の母  釈妙尼  源信僧都の母  願西尼  紫式部  清少納言  和泉式部  赤染衛門  右大将道綱の母  菅原孝標の女  正算法師の母  藤原兼澄の女  成尋法師の母  妙法尼  高敦遠の妻  源忠遠の妻  藤原基忠の妻  二條院讃岐  藤原経実の妻  藤原姫子  藤原佐世の妻  下野の母尼  源義朝の女  常盤御前  夜叉御前と母延寿尼  祇王祇女と仏御前  小督局  横笛  平時子



鎌倉時代


平政子  巴御前  静御前  虎御前  千手前と伊王前  越部禅尼  長楽寺尼  唯蓮房  微妙尼  西仙房の妹尼  愛寿  西行法師の女  遊女妙  梶原景時の女  袈裟御前  松下禅尼  阿仏尼  恵信尼  覚信尼  千日尼  妙法尼  日眼尼  日貞尼  日妙尼  日仏尼  景愛寺開山如大尼  覚山尼  祖忍尼



室町戦国時代


智泉尼  通玄寺開山覚安尼  慧春尼  利貞尼  守悦尼  清順尼  周養尼  武田勝頼の妻  理慶尼  友順尼  遊女明月  芳春院(前田利家夫人)  高臺院(秀吉夫人)  淀君  慶宝尼  瑞龍院日秀尼  出雲のお国



江戸時代


春日局  養珠夫人  祖心尼  文英尼  養寿庵開山日玉尼  日久尼  田捨女  日相尼  橘染子  桂昌院(綱吉生母)  了然尼(武田信玄の孫)  寂寿尼  園女  慈雲尊者の母  浄妙庵日顕尼  浄妙求寂尼  遊女瀬川  慈門尼  加賀千代女  豊後の妙喜尼  慧琳尼  薩摩の千代女  皓月尼  俊峰尼  野村望東尼



明治大正時代


貞心尼  蓮月尼  楫取聞子  杉瀧子  瓜生岩子  奥村五百子  内田貞音尼  村雲日栄尼  輪島聞声尼  微妙定院真意尼  九条武子





(鷲尾順敬)