< 願 文 >



〜 最 澄(十九歳)



 悠々と時の流れゆくこの世界は、ただ苦悩に満ちているだけで安らかなことはなく、さわがしく生きている生き物は、ただ患(うれ)うることのみで楽しいことはない。釈迦牟尼仏の太陽は隠れてから久しく、弥勒菩薩の月はまだこの世を照らしていない。この世の終わりの三種の災厄(火災・水災・風災)に徐々に近づきつつあり、五つの濁り(劫濁・・・戦争・飢饉など社会の時代的なけがれ、見濁・・・思想的なけがれ、煩悩濁・・・煩悩がはびこるけがれ、衆生濁・・・衆生の心身がおとろえるけがれ、命濁・・・衆生の寿命が短くなるけがれ)のおこる悪世の深淵に沈んでしまっている。


 そればかりではなく、風のように早く飛び去る命は長く保ち難く、露のようなこの身体は消え易い。草葺の葬礼堂には楽しみはないのに、老人も少年もここに白骨を散らしさらし、墓室は闇くて狭いにもかかわらず、貴い人も賤しい人も、争ってここに魂を宿らせる。他人を仰ぎ見、自分を省みてみるに、この道理は脱れられないものである。私は不老長寿の仙薬をまだのんでおらず、この魂をこの世に留めておくことは困難である。過去の業を知る神通力をまだ得ていない。だから自分の死期をいつであると定めたらよいのであろうか。生きている間に善をなさなかったならば、死を迎えた日には、地獄の薪となって火にせめられるであろう。


 得にくく、しかもひとたび得てしまえば移り易いのは人の身である。起し難く、起しても忘れ易いのは善心である。そこで釈尊は、人の身の得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山の山頂からたらした糸を山麓の針の穴に通すことに喩え、古賢の禹王は、寸陰を惜しみ、より僅かな時間をも惜しんで、一生が空しく過ぎ去っていくことを慨嘆した。原因がなくて結果があるという道理はなく、善を行なうことなくして苦悩を免れることができるという道理もあることがない。


 伏して自分自身の行ないを尋ねて考えてみるに、戒を守ることなくして、ひそかに衣服・飲食・臥具・湯薬など他人の骨折りを受けており、愚かにして真実を知らずに、あらゆる生き物の怨(あだ)となっている。このために、『未曾有因縁経』には、「施す者は天に生まれ、施しを受ける者は地獄に入る」と述べている。前世において婆羅門や五人の比丘に欺かれても衣服・飲食・臥具・湯薬の供養を行なった提韋は、この世では舎衛国の波斯匿王の皇后となるという福を得て行ないの結果が現われ、その利益を貪った五人の比丘は、この世に不妊の女となって生まれ、皇后の輿をかつぐ結果となって現われている。善悪の因果は明らかなことであるよ。慙愧の心をもつ人ならば、誰がこの法則を信じないであろうか。このようであるので、善い原因を知りながら、しかも苦悩の結果を畏れない者を、釈尊は仏になる種を全く持たない者として排除されており、人の身を得ながら、無意味に善い業(おこない)をなさないでいる者を、聖教には、宝の山に入りながら空の手で帰る者であると責めている。



ここにおいて、愚の中の極愚であり、狂っている中の極狂であり、心の荒れたつまら


ない人間であり、最低である最澄は、上は仏たちの教えに違反し、中は天子の法に背


き、下は孝を欠いている者である。



 私は迷狂の心に随いながらも、謹んで、五つの誓いを起した。とらわれのないことを手段とし、最高の真実のために、こわれ、退くことのない金剛のような堅い心の願いを起したのである。


一、私は六根相似の位(止観を実践することによって感覚器官が清浄なものになり、真実の悟りに似た段階に到達した位)という悟りへの段階に到達しないうちは、世間に出ることはなすまい。


二、まだ真実の道理を照らす心を得ないうちには、種々の才芸を習得することはなすまい。


三、まだ戒律を完全にそなえることができないうちは、施主の法会にあずかることはなすまい。


四、まだ悟りの智慧の心を得ないうちは、世間的な種々の業務にとらわれることはなすまい。但し、六根相似の位に到達した場合は除く。


五、過去世と未来世の中間である現在世において修した功徳は、自分の身だけに受けることはせず、あまねく人々に施してすべての人にことごとく最高の悟りを得させよう。


 伏して願わくば、解脱の味を自分一人で飲み味わうことなく、また安楽の結果を自分だけで悟ることなく、この宇宙のあらゆる生き物が同じく立派な悟りの立場に登り、この宇宙のあらゆる生き物が、同じくすばらしい悟りの味を飲むことにしたい。もしこの願力によって六根相似の位という悟りへの段階に到達し、もし五種の神通力(天眼通・・・普通は見えないものを見るはたらき、天耳通・・・普通聞こえない声を聞くはたらき、他心通・・・他人の心を知るはたらき、宿命通・・・過去を知るはたらき、如意通・・・どこへでも自由に行けるはたらき)を得る時には、必ず自分だけが悟りを得、仏の位を得ることをせず、あらゆるものに執着することはなすまい。


 願わくば、必ずこの世での、作意することなき、対象にとらわれることなき四つの弘い誓願(衆生無辺誓願度・・・あらゆる衆生を救い、煩悩無尽誓願断・・・あらゆる煩悩を断ち切り、法門無量誓願学・・・あらゆる教えを学び、仏道無上誓願成・・・最高の仏道に到達しようとする誓い)に導かれて、あまねく宇宙全体をへめぐり、あまねく迷いの六種の世界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の世界)に入り、それらの世界を仏の国土として浄め、生き物を悟らしめ、未来永劫につねに仏の働きをなすことができますように。




(786年)