< 自性清浄章 >



〜 「勝鬘経義疏」聖徳太子 〜







勝鬘夫人がみずからの理解を世尊に披瀝し世尊もまた


その理解を正当なものとし、心は本来清浄であることを確かめあった章である。




 『世尊よ、生死(しょうじ)は如来蔵に依(よ)る。如来蔵をもっての故に、本際(ほんざい)は不可知なりと説く。

世尊よ、如来蔵あるが故に、生死を説く。是を善説と名づく。

世尊よ、生死・生死とは、諸々の受根の没すると、次第に受根の起こらざるとなり。是を生死と名づく。世尊よ、生死とは、此の二法はこれ如来蔵なり。

世間の言説(ごんぜつ)の故に死あり、生あり。死とは諸根の壊(え)するなり。生とは新たに諸根の起こるなり。如来蔵に生あり死あるにはあらず。如来蔵は有為(うい)の相を離る。如来蔵は常住不変なり。

(こ)の故に、如来蔵はこれ依(え)たり、これ持(じ)たり、これ建立(こんりゅう)たり。

世尊よ、不離・不断・不脱・不異・不思議の仏法なり。世尊よ、断と脱と異との外(ほか)にして、有為法のために依たり、持たり、建立たる者、これ如来蔵なり。世尊よ、もし如来蔵なくんば、苦を厭(いと)い涅槃(ねはん)を楽求(ぎょうぐ)するを得ざらん。何をもっての故に。此の六識とおよび心法の智とにおいて、此の七法は刹那も住せず。衆苦(しゅく)を種(う)えず、苦を厭い涅槃を楽求するを得ず。

世尊よ、如来蔵は前際(ぜんざい)なし。不起・不滅の法なり。諸々の苦を種え、苦を厭い涅槃を楽求するを得。

世尊よ、如来蔵は我にあらず、衆生にあらず、命(みょう)にあらず、人(にん)にあらず。如来蔵は、身見に堕する衆生と顛倒(てんどう)の衆生と空乱意の衆生とは、其の境界(きょうがい)にあらず。』


 まず第一の頁についてである。『世尊よ、生死は如来蔵に依る』というのは、そのうちの「生死」というのは、真実を不真実と見る逆さまの見解たる顛倒であり、「如来蔵」というのは、まさに真実そのものである。いまここでは、すべての生けるものたちはみな真実という本性をもっていることを明らかにしている。もしも人びとにこのような本性がなかったならば、人間としての迷いの生存がひとたび尽きてしまうと、草木と何ら異なるところがないものとなる。このような本性があるからこそ、それがずっと続いて、ついには最高のさとりを得ることができるのである、だから、「生死は如来蔵に依る」というのである。

 このうちの『如来蔵』というのは、もしも普遍的な真理である道理そのものをさとりの正しい原因とするならば、すべてその道理自体が如来蔵であり、もしも人びとの心をさとりの正しい原因とするならば、すべてその心によって報われた結果が如来蔵なのである。

 『本際は不可知なり』というのは、本来、生死にはその始めと終わりがないわけではないが、ただ如来蔵という無始無終のものに即して論じているので、「そもそもの初めは知られない<本際は不可知なり>」というのである。なぜならば、この如来蔵は過去・未来・現在の三世にわたる時間の法則に支配されず、時間を超えたものであるからこそ、如来蔵は生死のよりどころとなるのである。それで、いつから始まったかは知ることができない。また一説によれば、「生死には始めと終わりがないわけではないが、ただその始めと終わりを決定しがたいからである」ともいう。「本際」というのは、人びとがこの世に出現した始原をいう。

 『世尊よ、如来蔵があるが故に』より以下は、普遍の真理という「理」の面から説いたものを、善く説かれたことば<善説>とする。これについては、経文に当たって理解するがよい。

 『生死・生死とは』より以下は、生死がその中に如来像を宿していることを説明する。これを二つに分ける。@まず生死の意味を解釈する。重ねて「生死」ということばがあるのは、生と死との二つの意味を解釈しようとするために、上の「生死」をもって生を、下の「生死」をもって死をあらわしているからである。一説によれば、上の「生死」については、前文の「生死」をかかげ、下の「生死」は、以下の文章に出す「生死」に注目して「生死」そのものを解釈しようとするのであるという。『諸々の受根の没する』というのは、われわれは、眼・耳・鼻・舌などの感官によって外的な刺激を受けとめ、そこでいろいろな感情が生ずるが、そのような共通した心作用をさして、「没(迷いに没していること)」という。『次第に受根の起こらざるとなり』というのは、楽しいと思ったことがつぎの瞬間には苦しみに変わるように、前の感情とあとの感情とが連絡して起こっていくことがありえない、ということである。A生と死の二つがその中に如来蔵を宿していることを説明する。すなわち、この如来蔵の道理は、如来蔵自身が如来蔵たらんと欲しているというのではなく、ただ生と死の二つを如来蔵とするというのである。

 『世間の言説に故に』より以下は、生死と如来蔵とがことなっていることを説明する。もしも如来蔵が生死の中に宿されているのであれば、如来蔵と生死は渾然として一つのものであるということになる。それゆえに、この両者が異なっていることを示すために、ここではまず生死について説明し、そののちに如来蔵の意味を説明しているのである。

 『是の故に』より以下は、生死は如来蔵によって成立していることを結論づける。

 『不離・不脱』より以下は、人びとがその存在を全うするのは、如来蔵によって基礎づけられているからであって、もしもこの如来蔵という道理がなければ、苦を厭い楽を求めるいわれがないということを説明する。これを三つに分ける。@ただちに、如来蔵によって人びとの存在価値があることを説明する。A『もし如来蔵なくんば』より以下は、もしも如来蔵がなければ、人びとの存在価値がないことを説明する。B『何をもっての故に』より以下は、上のAについての理由を明らかにする。

 不離・不断・不脱・不異という、四つの「不」の文字は、迷いの煩悩から離脱していないことをいう。また一説によれば、「如来蔵の本体は真実そのものであって、それから隔離し、断絶し、離脱したりしないし、真理と異なるものではない」と述べている。

 『世尊よ、如来蔵は」より以下は、如来蔵が過去・未来・現在の三世という時間を超えたものであることを説明する。「前際なし」というのは、未来を指す。「不起」というのは、現在をいい、「不滅」というには、過去を指す。

 『如来蔵は」より以下は、如来蔵が人びとによって間違って理解されている生けるもの・生命・個人我というものではないことを説明する。






 『世尊よ、如来蔵はこれ法界蔵なり、法身蔵なり、出世間の上上蔵なり、自性清浄蔵なり。

 此の自性清浄と如来蔵とは、しかも客塵煩悩と上煩悩とに染(ぜん)せらるる不思議の如来の境界なり。

 何をもっての故に。刹那(せつな)の善心は煩悩の所染(しょぜん)にあらず。刹那の不善心もまた煩悩の所染にあらず。煩悩は心に触(しょく)せず、心は煩悩に触せず。云何ぞ触せざる法にして、しかも能く心を染することを得ん。世尊よ、しかも煩悩あり、煩悩の心を染することあり、自性清浄なる心にして、しかも染あることは了知すべきこと難し。

 唯、仏・世尊のみ実眼たり、実智たり、法の根本たり、通達の法たり、正法の依たり。実の如く知見したもう』


 如来蔵の『蔵』五種類あることを挙げて、それが本来同一のものであることを説明する。すなわち、@如来蔵である。この場合は、それが迷いの煩悩の内に存在しているから「蔵」といい、またやがて将来に引きおこす結果を内含しているから「蔵」と名づける。A法界蔵である。そのわけは、仏のさとりがあらゆる現象世界を内含して、あまねく照らすからであり、また、これが永遠不変の真理そのものであるから、そのようにいう。B法身蔵である。そのわけは、法身というものがあらゆるすぐれた徳性を内含しているから「蔵」と名づける。C出世間上上蔵(迷いの世界を離れた最高の蔵)である。D自性清浄蔵(それ自体が本来、他のものによごされることのない清らかな蔵)である。

 さて、五つのうち、最初と最後のものは、如来蔵が煩悩の中に隠れた時の呼称であり、中間の三つは、煩悩の中から顕わになった時の呼称である。このように、隠と顕の相違はあっても、本来は一体のものなのである。

 『此の自性清浄』より以下は、煩悩に染まるか染まらないか区別し難いむねを説明する。

 『客塵煩悩』というのは四つの潜在的な煩悩をいい、『上煩悩』というのは、ガンジス河の砂の数以上もある無数の煩悩をいう。この項でいわんとすることは、如来蔵がこの二種の煩悩によって染まるか染まらないかを知ることは困難であることを明らかにする。なぜならば、如来蔵自体は本来清浄のものであるから、どうして煩悩のけがれに染まることがあろうか、ということが考えられるし、また迷いの煩悩の中に如来蔵が存在するのであるから、どうして煩悩に染まらないことがあろうか、ということも考えられるからである。それゆえに、この如来蔵を『不思議の如来の境界なり』というのである。

 『何をもっての故に』より以下は、われわれの身近な事例として、一瞬の心の動きをとり挙げて、それが善心とも不善心(悪心)とも決定しがたいことを述べて、如来蔵という深遠な道理に比べる。これを二つに分ける。@あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、染まらないということがいえる。 Aあらゆる事象に実体を認めず生滅変化するものとみる存在観からすれば、染まるということがいえる。

 まず、「染まるのか染まらないのかを区別するのが、どうして難しいのか」という質問が提出される。それに答えて、(第一に、あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、染まらないということがいえる、ということを明らかにするなかで)刹那の善心は煩悩の所染にあらず』というのは、あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、善心が先に滅して、煩悩はその直後に生ずるから、その時点においては煩悩に染まった善心なるものが存在しないがゆえに、どうして「染まる」ということがありえようか、ということである。『刹那の不善心もまた煩悩の所染にあらず』というのは、不善心の生ずるのは煩悩によるのであり、そのうえに、さらにどんな煩悩がやって来てこれを染めようか、ということである。『煩悩は心に触せず、心は煩悩に触せず』といううち、「触」というのは、煩悩がどんなに多く生じても、その作用がわれわれの心に「及」ぶことがないというのである。煩悩が滅んでも心には及ぶことがないのである。同様に心もまた、煩悩に影響を与えることがない。こうして、両者は互いに影響しあうことがないのであるから、どうして「染まる」ということがありえようかというのである。

 『云何ぞ触せざる法にして、しかも能く心を染することを得ん』より以下は、あらゆる事象に実体を認めず、生滅変化するものとみる存在観からすれば、仮の呼称として、染まるということがある、ということを明らかにする。『しかも煩悩あり、煩悩の心を染することあり』というのは、この存在観においては、仮に染まるということがいえるということである。すなわち、前の善心が滅びないで、それがそのままのちの悪心に転ずると考えるから、悪が前の善を染めるということになる。  要するに、我々の身近な事例としての、心が煩悩に染まるか染まらないかについてすら、このように決定しがたいのであるから、まして深遠な道理である仏性としての如来蔵について、その染・不染を決定することがどうしてできようか。

 『自性清浄なる心にして』より以下は、煩悩に染まるか染まらないかを明らかに知るのは、仏のみであると考えて、説明を仏に乞う。これについては、経文に当たって理解するがよい。






 勝鬘夫人、是の難解の法を説きて仏に問いたてまつる時、仏、すなわち随喜したもう。

 『是の如し、是の如し、自性清浄なる心にして、しかも染汚あるは了知すべきこと難し。二法の了知すべきこと難きものあり。謂わく、自性清浄心は了知すべきこと難し。彼の心、煩悩の為に染せらるることもまた了知し難し。

 是の如き二法は、汝とおよび大法を成就せる菩薩・摩訶薩とのみ、すなわち能く聴受す。諸余の声聞は唯仏語を信ずるのみ。もし我が弟子の随いて信じ、信増上なる者と、明信に依り巳わって法智に随順する者とは、しかも究竟するを得たり。法智に随順すとは、根と意解と境界とを施設するを観察すると、業と報とを観察すると、阿羅漢の眠を観察すると、心自在の楽と禅の楽とを観察すると、阿羅漢と辟支仏と大力の菩薩との聖自在通とを観察するとなり。此の五種の巧便の観成就して、我が滅後の未来世の中において、我が弟子の随いて信じ、信増上なるものと、明信に依って法智に随順するものとは、自性清浄心と彼の煩悩の為に染汚せらるるとを、しかも究竟することを得ん。是の究竟は、大乗の道に入るの因なり。如来を信ずる者には、是の大利益あり。深義を謗(そし)らず』と。


 『勝鬘夫人』より以下は、本章を二つに分けた第二の部分で、仏が夫人の説いたことをさらに敷衍(ふえん)する。これをさらに二つに分ける。 @これまで夫人が如来蔵と煩悩の関係を説いてきた説にたいして、仏が「よく語った。だが、それはだれもが納得するのに困難な説である」といわれたことを、まず述べる。  A『是の如きの二法は』より以下は、このような、納得するのに非常に困難な道理を、信ずることのできる人を出す。

 『自性清浄なる心にして、しかも染汚あるは了知すべきこと難し』というのは、如来蔵が煩悩に染まっていることを認識することが、人びとにとって困難であるということを述べたものである。『二法の了知すべきこと難きものあり』といううち、「二法」というのは、道理としての如来蔵と、それを汚す現実の具体的なことがらをいう。『謂わく、自性清浄心は了知すべきこと難し』というのは、道理として如来蔵が煩悩によって染まるとか染まらないとかいう点についてはなかなか理解しがたいものであることをいう。『彼の心、煩悩の為に染せらるることもまた了知し難し』というのは、現実の具体的なことがらにおいても、心が煩悩によって染まるとか染まらないとかいう点については、なかなか理解しがたいということを説く。そこで、このように勝鬘夫人が自分自身で説き明かすことが困難なために、その説明を仏に乞う。ところが、仏もまた同様に、夫人の説明したことばをそのままくり返して述べるだけであった。その理由として、つぎの二つの意味が考えられる。 一つには、個々の具体的な事実の次元で説明しようとすれば、「染まる」という印象が強く出る。 二つには、普遍的な道理の次元で論じようとすると、「染まらない」ということになってしまう。それゆえに、勝鬘夫人の説明したことばをそのままくり返して述べるより仕方がなかったのである。

 『是の如き二法は』より以下は、このような納得するのに非常に困難な道理を信ずる人を出す。さきにはすでに勝鬘夫人が理解しがたいといっており、いまここでも仏は同様に理解しがたいと告げている。そうなると、この理解しがたい説をどのように信じていったらよいか、わからなくなってしまう。そこで、この理解しがたい説を信ずることができる人を例示して、疑いのないようにと勧めるわけである。この項を三つに分ける。 第一に、全般的にいって、理解力のすぐれた者は容易に信ずることができるが、凡夫は信ずることが難しいということを明らかにする。 第二に、『もし我が弟子の』より以下は、まさしくそれを信ずることができる人を例示する。すなわち、けがれなき信心の知恵を得た信忍の求道者と、および真理に随順する智慧を得た順忍の求道者とである。 第三に、『此の五種の巧便』より以下は、信ずるについての結論である。すなわち、仏の巧みなてだてとしてわれわれに説かれた五種の観察法を修めて、しかも仏への信心を確立し、真理をさとる智慧を身につけていくならば、上の道理を理解する人となることができる。

 『法智に随順すとは』より以下は、順忍、すなわち、真理に随順する智慧について解釈する。

 『もし我が弟子の随いて信じ、信増上なるもの』といううちで、「信ず」というのは、信忍、つまり信心の智慧についての説明である。『信増上』というのは、求道者が五十二位の段階にうちで、最初の十信の位をすぎて次の十住の位に入ったところの、登住において得る信心をいう。これは信心の中の最上のものである。『明信に依り巳って法智に随順する者とは、しかも究竟するを得たり』というのは、順忍、つまり真理に随順する智慧についての説明である。ところで、この項で説くのは信認と順忍の二つではなくて、順忍についてだけの説明ではないか、という疑いが生ずる。それは、『随いて信じ、信増上なる者』と説かれているのも、信心は随順に前提として語られているにすぎず、結局、随順の根本には真理に随順する智慧である順忍であるということを述べたものと考えるからである。

 順忍だけについてその内容を具体的に解釈する。すなわち、順忍を得るために五種の観察法が説かれる。そのうち、第一の観察として、『根と意解と境界とを私設するを観察する』という句のうち、『根』というのは、眼とか耳という六つの感官のことであるが、それらは仮に設けられたもので、それぞれ感官の対象に依存している。『意解』というのは、六つの感官がそれぞれ対応する対象をとって、見るという識別作用とか、聞くという識別作用などの六つの識別作用を起こすのをいう。『境界』というのは、六つの感官が識別作用を起こすところの、六つの対象をいう。 以上の三種を合わせると十八の領域となり、これをいちいち観察するから、十八の領域に関する観察という。 第二の観察に、『業と報とを観察する』というのは、原因としての行為と、その行為によって生じた果報との二つを観察することである。 第三の観察に、『阿羅漢の眠を観察する』というのは、あらゆる煩悩の根元である無知を観察することである。 第四の観察に、『心自在の楽と禅の楽を観察する』というのは、欲望などの情的煩悩から離れた禅定の楽しみを観察することと、および真理に対する無知という知的煩悩から自由になった楽しみを観察するという、二種の観察をいう。『楽しみ』というのは、智慧が対象を観察するのに、自由自在である状況をいう。 第五の観察とは、阿羅漢と辟支仏とすぐれた求道者がその身に具える神通力を観察することである。 

 『此の五種の』より以下は、信ずる人についての結論である。『大乗の道に入る因なり』というのは、大乗の道が仏となるための原因となることを明らかにしている。また一説によれば、「第八地以上の求道者は、大乗の道を歩む者であり、信忍と順忍の二忍は求道者にとって、大乗のさとりを得る原因である」という。

『如来を信ずる者には、是の大利益あり。深義を謗(そし)らず』というのは、つぎのような意味である。すなわち、仏の言葉をこの人は以前に信じていた。そこで、かれはこのような五つの観察力という利益を得る者となった。それゆえに、この五種の観察力によって、いまここで、かれは理解困難な如来蔵の道理を信ずることができる、というのである。



〜 聖徳太子 〜








 迷いとさとりの関係を明解に説く一章である。如来蔵をさとりとし、生死(輪廻)を迷いとするとき、われわれ人間は迷と悟にどのようにかかわるであろうか。

 人間存在の根拠を如来蔵から探求しようとするのがこの章のねらいである。

 如来蔵は生死のよりどころであるから、生死を離れて如来蔵はないということになる。死とは、外界の刺激によって起こった感覚が変化することであり、生とはさらに新しい感覚が生ずることであって、生・死ともに如来蔵の世俗的な表現である。生死のよりどころとはいえ、如来像自体は生死のごとき生滅変化の相を超越した永遠不変のものである。それゆえにこそ如来像は、いっさいの個別的存在の基礎となりうるのである。生死流転の迷いの中に動揺しているわれわれに、もしも如来蔵がなければ、真に苦であることにめざめず、真実のさとりを得ようとする心も生じないであろう。


 本章の要旨は、人びとが各自に具わる如来蔵の存在を信ずることが、大乗の教えを実践し、究極に真実を体得する要因となるという。そこで、まず仏教で説く「心性本浄説」の立場から規定して、如来蔵を本性として清浄なるものととらえ、なぜもともと清浄な如来蔵が迷いの煩悩によってけがされるのか、という面について解明する。



〜 早島鏡正 〜