< 自然はやさしい案内者である >



〜 モンテーニュ 〜







 自然は優しい案者である。だが、それに劣らず、賢明で公正な案内者である。 ≪事物の本性に中に分け入って、それが何を要求しているかを見究めなければならない。≫ 私はいたるところに自然の足跡を探し求める。われわれは人為の足跡でこれを混乱させている。自然に従って生きるというアカデメイア派や逍遥学派の最高善も、そのために限定もしにくくなっている。 また、これに近い、自然に合致するというストア派の最高善もその通りである。ある種の行為を、生存に必要なものであるからという理由で、価値の低いものと見なすのは誤りではないか。だから、私の頭から快楽という必然の結婚はきわめて似合いの結婚であるという考えを追い払うことはできないであろう。ある古人によれば、神々は常に必然と共謀しているのである。いったい何のために、われわれはこれほどに密接に、兄弟のような絆で縫い合わされているものを二つに引き裂くのか。むしろ結びなおしてやろうではないか。精神は肉体の鈍重さを呼び覚まして活気づけ、肉体は精神の軽薄さを抑えて落ちつかせなければならない。 ≪精神の性質を最高善のように讃え、肉体の性質を悪としてけなす者は、実は精神を肉的に求め、肉体を肉的に避けている。なぜなら、この考えは神の真理からではなく、人間のむなしさから生じるからである。≫ 神の下し給うたこの賜物の中には、一つとしてわれわれの関心に値しないものはない。われわれは一本の髪の毛にいたるまで重んじなければならない。人間を本性にしたがって導くことは人間にとってかりそめの仕事ではなく、明白な、単純な、きわめて重要な仕事であり、造花の神が真面目に、厳粛にわれわれに与え給うた仕事である。凡俗な頭脳に対しては、権威だけが力を持ち、しかも権威は外国語で表わすといっそう重みを増す。ここでもその手でゆくとしよう。 ≪次のように言わない者があるだろうか。なすべきことを怠けながら不承不承におこない、肉体と精神とを別々の方向に駆り立て、両者を相反する運命に引き裂くのは、愚者の特徴であると。≫


 さて試みに、いつかある人をつかまえて、その人がおいしい食事もそっちのけで、食べる時間も惜しいと思うほど、気もそぞろに頭の中に考えていることをしゃべらせてごらんなさい。食卓にあるどのご馳走をとってみても、この人の心の結構な糧よりもまずいものはないだろうし、(たいていの場合、そのために徹夜して頑張るよりは、ぐっすり眠ったほうがましだ。) この人の話や意図はシチューにも及ばないだろうから。たとえそれがアルキメデスの有頂天の歓喜だとしても、それがどうというのだ。ここには、熱烈な宗教的信仰心から、天上の事柄について絶えず良心的な瞑想にふける高尚な神々しい人々のことには触れずにおく。また、こういう人々を、われわれのような子供じみた人間どもや、われわれの頭を逸脱させる空虚な欲望や幻想と混同せずにおく。この人々は、強烈な希望に支えられて、キリスト教徒の最終の目的であり、究極の到達点であり、唯一の恒常不変な快楽である永遠の糧を、あらかじめ享受しているから、われわれの貧弱で不定で曖昧な幸福を軽蔑して、肉欲的な現世的な糧についての配慮や享楽を、気易く肉体に任せるのである。ああいうのは特別な勉強である。われわれ凡俗の間では、私は常に、もっとも天上的な思想ともっとも現世的な生活の間に奇妙な一致があることを見て来た。


 あの偉大なアイソポスは、先生が歩きながら小便をするのを見て、「おやおや、それなら、私たちは走りながら大便をしなければならないのか」と言った。時間を大事にしようではないか。それでもまだ、無為の、無駄に費やされる時間がたくさんある。われわれの精神は、肉体が必要を満たすのに用いるわずかの時間も、肉体から離れなければ、自分の仕事をおこなう時間が足りないと考えたがる。人々は自分から脱け出し、人間から逃げたがる。ばかげたことだ。天使に身を変えようとして動物になる。高く舞い上がるかわりにぶっ倒れる。あの超越的な思想というやつは、近づくことのできない高い場所のように私を恐れさせる。また、ソクラテスの生涯の中で、彼の恍惚状態とか、精霊にとりつかれたとか言うことほど私にとって理解しがたいものはないし、プラトンにおいて、皆から神のごとき人と言われた理由ほど人間的に思われるものはない。私には、われわれの学問のうちでは、もっとも高く昇ったものがもっとも現世的で卑俗であるように思われる。アレクサンドロスの生涯の中で、自分を不死化しようと考えたことほど、卑しく、人間臭いものはないと思う。フィロタスはこれに答えて彼を茶化して手紙をやって、ユピテル神であるアンモンの託宣で神々の列に加えられたことを祝って、「あなたのためには喜ばしい。けれども、人民のためには気の毒です。人民は、人間の尺度に満足せず、人間の尺度を超越する人とともに生き、その人に服従しなければなりませんから」と言った。 ≪おまえは神々に服従しているから、世界を支配しているのだ。≫


 アテナイ人たちがポンペイウスの市内への入城を讃えて彫った次の可愛らしい碑文は私の考えと一致する。



あなたは自ら人間であることを認めるから、ますます神とあがめられる。



 自分の存在を正しく享受することを知ることは、ほとんど神に近い絶対の完成である。われわれは自分の境遇を享受することを知らないために、他人の境遇を求め、自分の内部の状態を知らないために、わえわれの外へ出ようとする。だが、竹馬に乗っても何にもならない。なぜなら、竹馬に乗っても所詮は自分の足で歩かなければならないし、世界でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に坐っているからである。


 もっとも美しい生活とは、私の考えるところでは、普通の、人間らしい模範に合った、秩序ある、しかし奇蹟も異常もない生活である。ところで老人は少しばかりやさしく取り扱ってもらわなければならない。だから、この老齢を健康と知恵の守護神ではあるが、快活で愛想のよいアポロンにお願いしよう。



アポロンの神よ、どうか、私が、手にした幸福を、身も心も壮健で享受できますように。 


そして、私の老年が恥多いものでなく、琴の楽しみも奪われませんように。




〜 「エセー」より 〜