< もし例えば水がブドウ酒に・・・ >



〜 フォイエルバッハ 〜







 もし例えば水がブドウ酒に転化させられたとしたならば、そのときは、この奇跡を感性的な事実として確かめるために、奇跡がわれわれの眼の前で起こらなければならなかっただろう。 すなわちそのときは私は、水がどういうふうにしてブドウ酒に転化されるかを見なければならなかっただろう。 奇跡の確実性は私に対してもっぱら、起こったことを目撃によって洞察すること・奇跡的な転化過程を目撃によって洞察することによって与えられただろう。 しかしそのときは奇跡は同時になんら奇跡ではなかったような奇跡であっただろう。 なぜかといえばそのときは私は奇跡がどうして起こるかを知っていただろうからである。 そうだ、いかなる欺瞞にも身を委ねないために・欺瞞に基づく最小の猜疑にもまた身を委ねないために・いかにしても欺かれることができない最も完全な確実性に到達するために、人々は、ブドウ酒への水の転化が瓶のなかでではなくてこの透明で太陽のように明らかなコップのなかで起こる、ということを表象せよ! しかしいったい私の眼は何を知覚するのか? 私は水に代わるブドウ酒の単なる現存在以上の何物をも見ないのである、すなわち他の或る自然的対象の代わりに或る自然的対象を見るのである。 しかも私はその際他の或る対象がどういうふうにして消え去ったかを理解しなかった、すなわち見なかったのである。 それ故に私はそのばあい、ただ奇跡を信じているだけであって、奇跡を見ていないのである。 すなわち私はそのばあい、ただ水の代わりにブドウ酒が私にわからなかった仕方で現れて来たのを見るだけであって、しかも奇跡そのものにかんしてはいかなる客観的感性的な確実性をももっていないのである。 感性的確実性は私に、ただブドウ酒であったこと・そこにある水が水であること、および水が存在していたところに一瞬間の後にブドウ酒が存在していたことをいうだけであって、しかも水がブドウ酒に転化させられたことをいわないのである。 水がブドウ酒に転化させられたというこの事実・この非自然的且つ超自然的な仕事はいかなる事実でもなく、単に信仰の事象にすぎない。 ちょうど空間的な空虚が感官の客観でも経験の客観でもないと同じように、質的な空虚ーーーすなわち水とブドウ酒との間に横たわっている無限な深淵ーーーも感官の客観でも経験の客観でもないものである。 すなわちただ信仰だけがこの深遠を飛び越えるのである。


 それ故に実際の奇跡は案出された奇跡・想像された奇跡・またはただ見せかけだけの奇跡と比較して、前者を優先的なものとして後者から区別するいかなる客観的標識をももっていない。 奇跡を歴史的な事実または現実的な出来事と思いこむことは自己欺瞞である。 事実とは、それが起こる瞬間に他在の可能性を排除するもの・それ故に目撃者の心のなかで懐疑の可能性を排除するものであり、それが存在するという主張およびそれがそういうものであるという主張を直接的且つ必然的に伴うものである。 しかるに奇跡は生起作用なしに生起したものであり、過去形なしの純粋な完了形であり、感性的な由来をも自然的な根拠をももたない感性的事実である。 奇跡はそれ故に、それが起こってしまった瞬間においてもまた、それが奇跡であるという主張を必ずしも自分の方に引き寄せない。 奇跡をして奇跡たらしめるもの、すなわちこの事実における本質的なものは、知覚のいかなる対象でもない。 私は、ただ奇跡が奇跡的な方法で起こってしまったということを想像し且つ信ずるだけであって、しかもそのことを知っているのではない。 奇跡は、奇跡が奇跡であるかどうかという懐疑・奇跡はそれにもかかわらずおそらく自然的な様式で起こってしまったのではないかどうかという懐疑を排除しない。 奇跡は人間を人間自身に任せ、人間自身の意志および考えに任せる。 すなわち、奇跡は現実的な事実の概念・拒否されることができない感性的な事実の概念に矛盾する。 いいかえれば、奇跡はいかなる事実でもないような事実である。 事実は正直であり、公明であり、信頼されることができ、無条件であり、端的に肯定的または否認的であるが、しかし奇跡は二義的であり、欺瞞的であり、かくされており、不正直である。 事実はそれがそれであるところのもの以外の何物としても自称することがない。 事実はたとえ私に対して自分の自然的根拠および自然的由来を語らないにしても、しかも事実は自分が(たとえそれが私にとっては熟知されていない根拠ではあっても)自然的な根拠をもっているということを拒否せず、そしてそれ故に寡欲にも自分を自然的な事実として主張する。 しかるに奇跡は感性的な事実を非感性的な事実と称する。 事実は単純であり、自然的であり、そのために不可抗的である。 しかるに奇跡は人に畏敬の念を起こさせようとし、それ自身においては事実性や対称性やの刻印を帯びていない特殊な意義を自分に対して与え、自分が考えていることとは別のことを話す。 奇跡はまた最も普通な記号および言葉・感性的な記号および言葉を使用するが、しかしそれらの記号および言葉を言語の慣用および諸法則にさえ反する恣意的な意味で使用する。 奇跡はいかなる信仰にも値しない。 すなわち、奇跡は真理の本質に矛盾する。 真理はただ真理自身だけを信頼する。 すなわち真理は、ウットリとさせる諸手段・空想を刺激する諸手段・しかし悟性を打ちのめす諸手段によって人間から承諾を無理取りすることを軽蔑する。 パスカルは次のようにいっている。「人々は教説を諸奇跡にしたがって評価しなければならず、諸奇跡を教説にしたがって評価しなければならない。 教説は諸奇跡を区別し、諸奇跡は教説を区別する。 これらすべてのことは真実であり、しかもこれらすべてのことは矛盾しない。」 しかし奇跡は教説を確認することができず、教説は奇跡を確認することができない。 教説は真実である。 しかし奇跡はそれ自身において、全く虚偽な前提・自然にかんする全く表面的な直観に基づいている。 奇跡はまた、人間が自然の深みから取り出す判断・人間が認識の立場から自然にかんしてくだす判断に基づいているのではなくて、自然が単にそれの外面的な仮象のなかで対象であるにすぎないところの日常的且つ普通に実践的な生活の立場から人間が自然にかんしてくだす判断に基づいているのである。 精神的な人間の生活はいかなる交替をもいかなる顕著な変化をも示さず、外面的な世間人はこの外面的な単調さおよび外面的な退屈さは単に内的に豊富で且つ自足している生活について証言しているにすぎないということにかんするいかなる予感をももっていない。 そういう理由で、外面的な世間人にとっては精神的な人間の生活は悲しい生活であり惨めな生活である。 ちょうどそれと同じように人間にとっては、通常の生活の立場から見れば、自然が平俗且つ陳腐な事物として現われる。 (ところで通常の生活においては、常にただ一つの同じことの反復だけが人間の眼の前に現われたのであり、また内面的合則性そのものが人間にとって対象なのではなくてただ内面的合則性の外面的諸帰結だけが人間にとって対象なのである。) そしてそれ故に人間はもっぱら暴力的な諸中断のなかで・劇的な諸見せもののなかで・神秘的な諸間奏曲になかで、神的精神の諸痕跡をきくことを信じているのである。 しかし実際には、奇跡的なもの・自然を支配している神的精神とは、単に自然における法則にすぎないのである。 法則は断じて死んだ文字ではなくて、生き生きとした精神・思慮深い精神であり、自然自身の内的な魂・創造的な魂・あらゆることを決定する魂なのである。


 それ故にたしかに哲学もまた諸奇跡を信じているが、しかし哲学は神学の諸奇跡を信じているのではない。 少なくとも、哲学の名に値するような哲学・神学のいやしい娼婦ではないような哲学・自分が考えたり話したりしているいかなる思想のばあいにも神学との一致という心情的且つ快適な平和を取り逃がすことがないために涙声でもって神学に赦しを乞うたりしないような哲学・奴隷的な心術でもって百年も千年もつづいていた偏見に屈服することがないような哲学・神学の諸奇跡を信じないのである。 哲学は恣意と無法則性との諸奇跡・想像の諸奇跡を信じないで、理性の諸奇跡・諸事物の本性の諸奇跡・認識のひそかで静かな諸奇跡を信ずるのである。 (そしてただ賢者の集中した精神だけが、ムーサたちのさびしい神殿のなかで、最も深い学問的恍惚の諸時間に、認識のこれらのひそかで静かな奇跡をきくのである。) 哲学は、平俗な感性的直観という市場のまっただなかでティンパニの諸響きとトランペットの諸吹き声とによって、アクビをしている群衆の<華美に対する欲望に燃えている下品な感覚>に対して告知されるような諸奇跡を信じない。 哲学は不滅な諸奇跡・永久に革新される諸奇跡・生き生きとした諸奇跡・普遍的な諸奇跡を信じ、特殊的な諸奇跡・一時的な諸奇跡・死んだ諸奇跡を信ぜず、且つまさにそのために精神をも意味をももたない諸奇跡を信じない。 哲学は自分の心を一時的な諸事物にかけない。 哲学はまして自分の心を過去におけるエジプトのミイラ崇拝にかけたりしない。





〜 「ピエール・ベール・・・哲学史および人類史への一寄与」より 〜