< もし私が仏になる時 >


〜 四十八願 〜



もし私が仏になる時、私の国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道があならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、いのち終って復び三悪道に生まれかわるようなことがあるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、悉く金色のからだを得なかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達の姿・形が不同で、而も美醜があるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、宿世のことを識りぬくことができず、少なくとも百千億那由他劫の昔のことを知ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、あらゆるものを見通すちからを得ることができず、少なくとも百千億那由他の国々を見通すことができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、あらゆる音声を自由に聞くちからを得ることができず、少なくとも百千億那由他の諸仏の説法を聞きとり、それを悉く受け持(たも)っていることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、他人の心を知りぬくちからを得ることができず、少なくとも百千億由那他の諸仏の国の人々の心念を知ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、いたるところを自由に飛行するちからを得ることができず、またたく間に少なくとも百千億那由他の国々を飛び超えることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、いろいろと想い計らい、わが身に執着するようなことがあるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、この世では仏となるに定まった位に住し、必ず迷を離れて滅度(さとり)に至ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、光明に限りがあって、少なくとも百千億那由他の諸仏の国々を照らすことができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、寿命に限りがあって、少なくとも百千億那由他劫で尽きるなら、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の声聞の数に限りがあって、少なくとも三千大千世界の声聞や縁覚が、百千劫の間、力を合わせて計算して、その数をかぞえ知られるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達の寿命は限りがないであろう。もっとも、各自の志願によって寿命の長短を自由にするのは別として、その人達の寿命に限りがあるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達に、不善のものは勿論、苟くも善くない名でもあるならば、私は仏にはなりませね。



もし私が仏になる時、十方世界の量りなき仏がたが、悉く讃めたたへて我が名を称えないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる衆生が、至心に信じ楽(ねが)って(至心信楽)、私の国に生まれたいと欲(おも)うて(欲生我国)、せめて十声でも念仏して(乃至十念)、もしも生まれることができないならば、私は仏にはなりませぬ。但し、父を殺し、母を殺し、聖者を殺し、僧侶の和合を破り、仏身より血を出すというような五逆罪を犯したものと、仏のみ教えを謗るものとは、この限りではありませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる衆生が、菩提(さとり)を求むる心を発して、諸々の功徳を修め積んだ功徳をたよりとして、一心に私の国に生まれようと願う(至心発願欲生我国)、そういう人のいのち終る時に臨んで、多くの場合、私が聖者達と共に、その人の前に現われなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる衆生が私の名前を聞いて、私の国を慕い、念仏を称え、その功力によって一心に私の国に生まれたいと思って(至心廻向欲生我国)、その願いが果たされなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、悉く仏の三十二相をまどかに具えないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他の諸仏の国から私の国に生まれて来る菩薩達は、必ず菩薩の最上位に至ることができましょう。もっとも、特別の願いがあって、衆生を自在に教化しようという心から、大悲の鎧を着て、善根功徳を積み累ね、あらゆるものから脱がれて、諸仏の国に遊んで菩薩の行(つとめ)を修め、十方の諸仏を供養し、量り知れない多くの衆生を強化して、この上もない正覚(さとり)の道を求むる心を起させようというものは、この限りではありませぬ。菩薩の最上位に至るものは、凡人より超え勝れ、菩薩の行(つとめ)のすべてが現われて、大悲の徳を実行することができましょう。もしそうすることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の菩薩が、仏の不思議な力によって諸仏を供養する際、わづかの時間内に、遍く数限りもない諸仏の国々に行くことができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の菩薩が、諸仏のみ前に於いて、供養の徳を現わす際、欲しいと思う品が、意(こころ)のままに得られないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の菩薩が、あらゆる智慧を得て、自在に演説することができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の菩薩が、力士のような堅固な身を得ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が用いるあらゆるものが、すべて清らかにして美しく、形も色も殊に優れ、その精巧微妙なることは、よく量り知ることができないであろう。かりに一切の衆生がものを見徹す眼を得て、よく明らかにその名や数を知り尽くすことができるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の菩薩や、前世に於いて功徳の乏しかった人達でも、量り無き光を有する高さ四百萬里の菩提樹を見ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、経法を読み、人に説いて、礙(さわ)りなき弁舌の才能を得ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達の智慧や弁才に限りがあるようであったらば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国は清浄で、その光は十方のありとあらゆる諸仏の世界を照らして見ること、恰も明鏡に自分の顔やかたちを映して見るようにいたしたい。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、地より虚空に至るまでの宮殿・楼台・池水・河流・樹木・花草、その他、国中のあらゆるものは、皆量りない宝と百千種の芳香とでつくり、その飾りの妙なることは諸々の人天の世にたぐいなく、その芳香は、遍く十方の世界に薫じわたって、その香りに触れた人達は、皆仏の道にいそしむでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる世界の人達が、私の光明に照らされて、その身に触れたものは、身も心もや柔らいで、人・天のそれに超え優れるでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる世界の人達が、私の名前を聞くことによって、宇宙の真理をさとることができず、名号の功徳を得ることができないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる世界の女子が、私の名前を聞いて、信じ、歓び、菩提を求むる志を発して、女の身を厭い嫌うでありましょう。そういう女子がいのち終った後、復び女性のからだをうけるようなことがあるならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる世界の菩薩達が、私の名前を聞くことによって、いのち終った後、常に自利利他の行(つとめ)を修め、仏道を満足するに至るでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、あらゆる世界の人達が、私の名前を聞いて、全身を地に投げ、頭を地について礼拝し、歓び信じて、浄土に往生する行(つとめ)を修めむに、諸天や世の人が、これを敬はないことはないでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、衣服が欲しいとおもうならば、念(おもい)のままに直(す)ぐに現われて、仏の讃美する袈裟のようになって、自然にその身にまつわるでありましょう。もし、裁縫したり、晒(さら)したり、染めたり、洗濯したりする必要があるようならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達がの受けるところの楽しみが、煩悩のけがれを除き尽くした聖者のようでないならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国の人達が、意(こころ)のままに量りない諸仏の浄土を見ようと欲う時、いつでも、願いの如く、宝珠の中にそれらをば悉く照らし見ること、恰も明鏡に自分の顔や像(かたち)をうつして見るようであります。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて仏になるまで、心身に不具に所があったり、醜いところがあったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて、いづれも皆、すべての束縛を離れた禅定を得、この禅定に住して、ひとおもいの間に、量り無き諸仏を供養して、而も禅定の静けさを乱さないでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて寿命が終った後、尊貴の家に生まれるでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞くことによって、歓びいさんで、菩薩の行(つとめ)を修め、諸々の功徳を具えるでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて、いづれも皆、量り無き仏を一時に見たてまつるという禅定を得、この禅定に住して仏になるまで、常に数限りない仏を拝むことができるでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、私の国菩薩は、その志願(のぞみ)のままに聞こうと欲う法を、自然に聞くことができるでありましょう。もしそうでなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて、たちどころに二度と迷わぬという位に至ることができなかったならば、私は仏にはなりませぬ。



もし私が仏になる時、他方の国の諸々の菩薩達が、私の名前を聞いて、たちどころに真理をさとり、その真理におとなしく順(したが)って心のおちつきを得ることができず、諸仏のさとり給える真理から転退(あともどり)しないようになることができなかったならば、私は仏にはなりませぬ。




(法蔵)