< 修道院長と教養ある女性 >


〜 エラスムス 〜








「これはこれは、この調度はいかなることじゃ!」


「みごとじゃございません?」


「みごとかどうかは存ぜぬが、お嬢さん、奥さんがたに似合わぬことはたしかじゃのう」


「まあ、どうしてでしょう?」


「いずれも書物であふれておるからですわい」


「まあ! もうお若くもないのに、僧院長をなさり宮廷にも出仕なさっていらっしゃるのに、貴婦人がたのお館で蔵書をごらんになったことはございませんの?」


「見ましたとも見ましたとも。だがそれはフランス語の書物でござった。ここにあるのはギリシャ語、ラテン語の書物じゃて」


「叡智をさずけてくれるのは、フランス語の書物だけでございましょうか?」


「いやさ、 貴婦人がたにはのう、つれづれの慰みとなる書物がふさわしいのじゃ」


「知識を広め、人生を楽しむことは貴婦人がただけに許されておりますの?」


「学ぶことと楽しむこととをいっしょにするのはまちがいですぞ。知の道はご婦人がたとは関係ないのじゃ。楽しく生きること、これこそ貴婦人の道なのじゃ」


「だれもが正しく生きねばならないのではございませんかしら?」


「さようさよう」


「正しい生きかたをしないものが、どうして楽しく暮らせるでしょうか?」


「いや逆じゃな。正しい生き方を志すものが、どうして楽しく暮らせようか、じゃ」


「では神父さまは、楽しく暮らしているかぎり、まちがった生きかたをしていてもさしつかえないとお考えですのね?」


「拙僧は、楽しく暮らしておる者は、正しい生きかたをしておると信ずる次第」


「でも、その楽しみはなにから生まれるのでしょうか?外部のものごとからでしょうか、それとも魂からでしょうか?」


「外部ですともさ!」


「まあ狡い神父様!でも哲学者としては落第ですわ!おっしゃってください、神父さまは楽しみとはなんだとお考えでしょうか?」


「眠ること、宴会、好きなことをする自由、お金、名誉。そんなところかな」


「でも、もしそういうことに神様が知恵を加えてくださったとしたら、神父さまは楽しくなくなるとお思いでしょうか?」


「なにをもって知恵と呼ばれる?」


「知恵とは、人間にとって精神の富以外に幸福はないということ、財産も名誉も血統も人間をより幸福にも、より立派にもできないということを、悟ることだと思います」


「そのような知恵なぞ、とっとと失せろ!」


「でも、神父さまが狩猟やお酒や丁半の賭け事をお楽しみになる以上に、わたくしにはよい作家の書物を読むことが楽しいといたしましたら、わたくしは人生を楽しんでいるのだ、とはお思いになりませんか?」


「拙僧としては生きたここちもせぬのう」


「わたくし、神父さまがなにをいちばんお好きかとうかがっているのではございません。なにがお好きであるべきか、そううかがっておりましてよ」


「拙僧としては、配下の修道士どもがやたらと読書するのは願い下げじゃよ」


「わたくしが書物を読むことに、夫は大賛成でございますが、どうして神父さまは配下のかたがたにそれをお認めにならないのでしょう?」


「なんとなれば、やつらが拙僧の言うことを聞かなくなるのは必定。やれ教会法典がどうだの、やれ教令集がどうだの、ペテロはこう述べている、パウロはこう申しておる、などと口答えをいたすじゃろうて」


「では神父さまは、ペテロやパウロの教えに反することを、命令なさっておいでなのでしょうか?」


「彼らがなにを教えとるか、拙僧はとんと不案内じゃが、口答えなどいたす僧侶は好まぬのじゃ。配下の者が拙僧よりも物知りなどとは言語道断!」


「そんなことは、神父さまができるだけ知識を深めようとお努めになれば、避けられることでしょうに」


「暇がござらんのじゃ」


「なぜでございます」


「時間がないのじゃ」


「勉学の時間が、でございますか?」


「さよう」


「どんなじゃまがございますの?」


「長たらしい祈り、財産の管理、狩猟、乗馬、参内」


「そんなことのほうが知恵よりも先だつのでございますか?」


「われらの習わしはかくのごとしじゃ」


「それではおうかがいいたしますが、もしユピテル(ギリシャ神話のゼウス)のような天の力によって、ご自分や部下のかたがたを、どんな獣にでも変身させる権能が、神父さまに与えられましたら、神父さまは部下のかたがたを豚に、ご自分を馬に変えたいとお望みですか?」


「冗談じゃないて!」


「でも、そうなさったら、部下のかたが神父さまより賢くなるのを妨げるじゃございません?」


「連中がどんな獣になろうとたいした問題ではござらぬ。拙僧さえ人間であれば、な」


「知恵もなく、知恵を身につけたいとも望まないものでも、人間の名に値するとお考えですの?」


「拙僧の知恵はこれで十分ですわい」


「豚も豚の知恵で満ちたりております」


「いやみごとな弁舌じゃな、女詭弁者はだしですぞ!」


「神父さまが、わたくしから見てなにに似ておいでかは申しあげません。でもわたくしの調度が、なぜお気に召さないのでしょうか?」


「なんとなれば、紡錘や紡錘竿こそ女性の武器だからじゃ」


「家事を切り回したり、子どもたちに教えたりするのも、一家の主婦の義務ではございませんか?」


「さようさよう」


「そんな大仕事は知恵なしにやってのけられるものではない。そうはお考えになりませんの?」


「さようさよう」


「書物はわたくしにそういう知恵を与えてくれますわ」


「拙僧は六十二人の修道士を抱えておるが、拙僧の部屋にはただの一冊も見つかるまいて」


「そのお坊さまがたは十分面倒をみてもらっているということですわね!」


「書物を読むのもよいが、ラテン語のものはいかんのう」


「どうしてでございますか?」


「なんとなれば、あのことばは女性にふさわしからぬものだからじゃよ」


「その理由をうかがわせてくださいませ」


「そは女性の操を守ること少なきが故なり」


「とおっしゃいますのは、軽薄このうえない作り話を詰めこんだフランス語の書物は、徳操を高める力がある、ということでございますわね」


「理由はほかにもありますぞ」


「それをお教えくださいませ。どんなことでも、はっきりと」


「女性がラテン語を知らねば、僧侶の甘言にも釣られずにすもうというものじゃ」


「その点では、神父さまの僧院では危険が少のうございますね。ラテン語を覚えないようにたいへんなご苦心をしていらっしゃるんですもの」


「世間では拙僧と同じように考えておりますぞ。なんせラテン語なぞのわかる女性は、数も少なく、ふつうではござらぬからのう」


「どうして世間などを引合いにお出しになるのです。行いの善悪については最悪の裁き手じゃございませんか?また、どうして習慣などを持ち出されるのでしょう。あらゆる悪事の指導者ではございませんか?

 最善のものと親しむべきでございましょう。そうすれば異例だったこともあたりまえになりましょうし、不愉快だったことも楽しいことに、無作法と思われたことも上品なことになりましょう」


「なるほど」


「ゲルマニア生まれの女性がフランス語を習うのはよいことじゃございませんか?」


「申すまでもござらん」


「なぜでしょうか?」


「フランス語を知っておる人々と話ができるようになるからじゃ」


「でも、わたくしがラテン語を学んで、あれほど雄弁で、博識で、賢明なおおぜいの著者たち、言いかえればあれほど信頼のおける相談相手と、毎日話を交わせるようになったら、神父さまはわたくしが身のほどを弁えないことをしているとお考えになるのでございましょ?」


「書物は女性の脳味噌を台なしにいたしまするぞ。もともとたいして持ってはおらぬが」


「神父さまがたがどのくらいお持ちかは存じませんが、わたくしとしましては、うわの空のご祈祷や夜を徹しての宴会や正体なしの痛飲よりは、たとえわずかの脳味噌でも、学芸の習得のために費やしたいと思いますわ」


「書物に親しむと気が変になるものじゃ」


「酔っ払いや道化師やたいこ持ちとのおつき合いは、神父さまのお頭をべつにおかしくはいたしませんか?」


「とんだ見当違い!気が晴れ晴れとしますぞ!」


「ではあんなに楽しい著者のかたがたとの対話が、どうしてわたくしを気違いにしてしまうのでございましょう?」


「世間でそう申しておるわい」


「けれども事実はもっと別のことを語っておりますわ。お酒の飲みすぎや時をかまわない宴会や、飲み明かしたり放蕩に耽ったりすることによって、どれほどおおぜいのひとが狂気に陥ったか、わたくしたちはこの目で見て知っておりますもの」


「拙僧は学のある女房なんぞまっぴらごめんじゃわい」


「わたくしの主人が神父さまと似ていなくて、ほんとに幸せでしたわ。学識のおかげで、主人にとってはわたくしが、わたくしにとっては主人が、ひときわ大切な人になるんですもの」


「学識は計り知れざる労苦なくしては得られぬもの。然り而して生者必滅会者定離」


「どうか、おえらい神父さま、うかがわせてくださいませ。もしあすは死なねばならないといたしましたら、きょうよりも賢くなって死にたいとお考えでしょうか、それともおろかになって死にたいとお考えでしょうか?」


「叡智が労苦なしに得られるならばのう」


「でもこの世にあっては、人間は労苦なしにはなにひとつ手に入れられないのでございましょう。しかも手に入れるものがなんであれ、どれほど辛苦して得たものであれ、すべてあとに遺してゆかねばなりません。それならばいっそのこと、なににもなして尊いもののために苦労した方がよいのではございませんか?その結果はあの世までわたくしたちについてくるのですもの」


「俚諺に曰く、『りこうな女は”しんにゅう”かけたおろか者』。いや、よく耳にいたしたものだて」


「たしかにそんなことが言われておりますわね。でもばかなひとたちの言うことです。ほんとうに賢い女は自分が賢明だなどとは思いも及びません。逆に、なにも知らない女は、自分が賢いと思いこんでおります。大ばかなのはこういう女でございます」


「いかなる次第かは存ぜぬが、驢馬の荷鞍が牛には合わぬのと同じく、学識は女性に合わぬわい」


「とは申しましても、驢馬や豚が”鳳嘴冠(ミトラ 大修院長、司教、枢機卿の冠)”をかぶるよりは、牛が驢馬の荷鞍を乗せた方がぴったりすることは否定なされないと存じますけど。

 それはそうと聖母マリアさまについてどうお考えでいらっしゃいますか?」


「結構至極」


「マリアさまは書物をお読みにはならなかったのでしょうか?」


「読みたもうたが、このような書物ではござらぬ」


「いったいなにをお読みでしたか?」


「聖務日課書じゃよ」


「どこで使うためのでしょう?」


「ベネディクト会じゃ」


「それでいいといたしましょう。ところで聖女パウラや聖女エウストキウムは、聖書に親しまなかったでしょうか?」


「現題では稀なことですわい」


「昔は、無知な修道院長というのは珍しい鳥でしたけれどね。いまではこれほど月並みなものはありませんわ。昔の君主や帝王は、力だけではなく知識においても群を抜いていたものですが。もっとも現在でも、あなたがお考えになるほど稀ではございません。

 イスパニアにもイタリアにも、どんな殿方にでも対抗できる女性が旧い貴族のあいだに少なからずおりますし、イギリスにはモア家の令嬢たち、ゲルマニアにはヴィリバルト家やブラウレル家の令嬢たちがおいでです。注意なさいませんと、しまいにはわたくしたち女性が神学校に君臨し、教会で道を説き、あなたがたの鳳嘴冠を奪い取るようなことになりましょう」


「神よ救いたまえ!」


「そのような事態を救うのは、むしろあなたがたの責任でございましょう。もし今までどおりのやり方を続けていらしたら、これ以上あなたがた唖の指導者をがまんするのはまっぴらとばかり、鵞鳥たち(聖職者に対する一般人をさす)がお説教を始めるかもしれませんわ。ごらんのように世界の舞台は上を下への大混乱(カトリック教会の堕落)。役者の仮面を脱いでいただくか、それともおのおのの自分の役をきちんと演じていただくか、二つに一つでございます」


「とんでもない女にぶつかったわい!あいや、拙僧をおたずねくださったおりには、もうちと楽しいおもてなしをいたしまするぞ」


「どんなおもてなしかしらね?」


「踊り踊って鯨飲し、狩りや遊びにうち興じ、然り而して呵々大笑じゃよ」


「ほんとにもう、いまでも笑いたい気持、わたくしとしましては、ね」